いつも主にあって喜びなさい(フィリピの信徒への手紙講解) 第5講:「死ぬことは益なのです」(フィリピ1章21~26節、2024年4月21日)

 

 

〔今週の御言葉-私訳と黙想 フィリピ1章2126節 死ぬことは益なのです〕

21わたしにとっては、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです。22 しかし肉体の中で生きることであるなら、そのことはわたしにとって働きの実です。そこで(生きることと死ぬことの)どちらを選ぶかを、わたしは知りません。23 私はその二つのことで板ばさみになっています。わたしは世を去り、キリストと共にいることがわたしの願望です。なぜならその方がはるかにずっとすばらしいからです。24 しかしわたしが肉体のうちにとどまることは、あなたがたのために必要です。25 そしてこのことを確信しているので、わたしは生き永らえて、あなたがたの進歩と信仰の喜びのために、あなたがたすべてと過ごすであろうことをわたしは知っています。26 あなたがたのところへのわたしの再度の来訪によって、わたしに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

 

 

「生きることはキリスト」とは、自分自身の内に主がいてくださり、時として心萎え、打ちのめされる弱い自分を、内側から生かしてくださる、それによって自分は生きているというパウロの言葉です。しかしパウロは「死ぬことも益です」とも語りました。パウロにとってはむしろその方が望ましいことでした。天にあるキリストと共にいることができるからです。しかし他の兄弟姉妹たちのためには、まだパウロの働きが必要でしたから、地上で生きることも、実を結ぶことになると受け止めます。ここで考えてほしいことは、パウロは「生きること」と「死ぬこと」を、自分で選択できる状況に置かれていたのではないということです。裁判の最中にあって未決囚として監獄に収監されており、裁判の結果がどのようなものになるのか、パウロはどうすることもできない状況にありました。晴れて無罪放免となれば良いですが、このまま何年も監獄生活を過ごさなければならないことにもなりえました。あるいはこの先には処刑が待っていたかもしれません。ですからパウロは自分の人生を、「生きること」と「死ぬこと」を自分で選ぶことも、決めることもできない状態にありました。しかしそのどちらになったとしても、パウロは喜んだのです。わたしたちも様々な制約の中に置かれていますが、それがどのような状態であったとしてもそれを積極的に受け止め、受け入れ、感謝し喜ぶ信仰を与えられていきたいと思います。