イースター

イースター · 2023/04/09
2023年度イースター礼拝:「死者の中からの復活による生き生きとした希望」 〔今週の御言葉 1ペトロ1章3~9節 キリストの三日目の復活の意義〕...
イースター · 2022/04/17
今日はイースター、つまり主イエスが死を打ち破り三日目に死者の中から復活して、墓から出てきた復活を記念する礼拝です。今日は、このイースターの出来事をその前後から考えていきましょう。まず三日目に死を打ち破り復活されるということは、主が繰り返し予告してこられたことでした。マタイ16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。17章22、23節「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する』」。20章17~19節「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」。そしてその予告どおり復活されました。その証拠が「空になった墓」でした。それを最初に目撃した女性たちに、御使いは次のように語り、主イエスの言葉を思い起こさせようとします。ルカ24章5~7節「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか』」。そこで彼女たちは、このイエスの言葉を思い出します。そして墓から帰って、弟子たちに一部始終を知らせたわけですが、それを聞いた使徒たちは、11節「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。 ルカ福音書はさらにもう一つの物語を伝えます。クレオパともう一人の弟子が連れだってエマオという村に向かっていた時の出来事です。そこで復活された主イエスが近づいてきて、彼らに伴って歩かれ、話しかけてこられました。その時二人は「暗い顔をして」いたとあります。二人はエルサレムで起きた出来事を知らなかったわけではありません。二人は答えました。19~21節「『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります』」と。主イエスに対する期待と希望を抱いて、主イエスを信じ、主イエスに従ってきた二人でした。しかしその主は十字架にかかり、志半ばにして無残な死を遂げてしまわれました。彼らにすれば、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」という希望は、ものの見事に砕け散って過去のものとなっていました。しかし彼らは、主が復活されたことを知らなかったのでしょうか。主が葬られた墓が空になっていることを、彼らだけは知らなかったのでしょうか。いいえ、そのことを彼らは知っていました。22~24節「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。彼らは墓が空であったことを知っていました。しかもそれは女性たちが動転して墓を間違えたからではなく、確かに主が葬られた墓が空になっていたことも確認した上でのことでした。さらにそれはユダヤ人たちが主の体を隠して、どこかにやってしまったからというのではなく、御使いを通して確かに主は復活されたことが告げられたことも知っていました。それにもかかわらず彼らはそれを信じることができず、暗い心、つまり将来への希望をなくし、絶望した思いでエルサレムを去っていこうとしていたのでした。そんな彼らに主イエスは、こう言われました。25~27節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。  弟子たちは、主が十字架にかけられて処刑されること、しかし三日目に復活されることが繰り返し予告されていました。そしてその確かなしるしも彼らに見せられましたし、現に復活された主イエスご自身に出会った弟子たちもいました。ヨハネによればマグダラのマリアも、復活の主にお会いしています(20章11~18節)。しかしクレオパともう一人の弟子といい、マグダラのマリアといい、直接その目で主にお会いしていながら、それが主であると認めることができません。こうした弟子たちの姿をわたしたちはどのように考えるでしょうか。まさに主と共に、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と考えるでしょうか。わたしたちがその場に居合わせたら、彼らとは違い、すぐにも主を認め、主を信じたでしょうか。クレオパともう一人の弟子は、急いでエルサレムに引き返すと、部屋に閉じこもっていた他の弟子たちに、主イエスと出会った出来事を伝えます。そしてその時、主イエスご自身が彼らに現れ、真ん中に立って言われました。「あなたがたに平和があるように」と。ところが彼らは、それを亡霊か何かかと恐れおののき、また疑ってさえいました。37~39節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある』」と。このようにどこまでも頑なで、不信仰で、疑い深い弟子たちでした。主が復活されたことを知り、それを信じているわたしたちからすれば、こうした弟子たちの姿はまことに愚かであり、滑稽であるとさえ感じるかもしれません。主イエスの言葉を信じることができない、なんと不信仰な人々かとなじることもできるかもしれません。しかしこうした弟子たちの姿は、それだけ主の復活という出来事が、彼らにとっては信じられない、またありえない出来事だったことを表しているのではないでしょうか。彼らにとってそれは全く予想外、想定外の出来事であり、思いもつかないどんでん返しがそこで起きたことを表しているのではないでしょうか。 確かに彼らは主イエスから、三日目の復活の出来事を予告されてはいました。しかしそれをどうして信じることができたでしょうか。復活は、単なる蘇生ではありません。臨死状態にあった人が息を吹き返したということではないのです。それが三日目ということの意味でした。死んでから三日ということには古今東西共通の理解がありました。つまり死者の霊魂はそれまで遺体の周りをうろついて、なんとかもう一度自分の体に入り、生き返ろうとする、しかし三日目はその希望が完全に断たれる日で、だから死者の蘇生をあきらめて葬りの儀式をするのです。死んで三日目とは、死者が完全に死んだことを意味するものでした。それがクレオパの言葉にもにじみ出ています。21節「そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。これは主イエスが完全に死んでしまったこと、だから間違っても息を吹き返して蘇生することなどありえないことを意味するものでした。主イエスに対する彼らの希望は完全に打ち砕かれました。たとえ主が、復活を予告されていたとしても、それは起こりそうにはありませんでした。百歩譲って、彼らはこの主の言葉をどこかで期待し、信じていたとします。だから三日目まで彼らは待ちました。もしかすると主の言葉のとおり、復活が起こるかもしれないと。しかしその三日目になっても、主は復活されたとは思えなかった、だから三日目になってエルサレムを去っていったのだと。しかしたとえそのように善意に解釈したとしても、その朝、主が確かに復活されたことは告げられました。7節「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。しかしそれを知っていながら、彼らはエルサレムを去っていったわけですから、やはり主の言葉を信じてはいなかったと言わざるをえません。三日目、それは人間の期待や願望を完全に打ち砕く日数でした。死んだ直後、あるいはせいぜい一日二日なら、蘇生の可能性もありました。しかし三日目は、それがもはや不可能となったことを意味するものでした。そしてその三日目に主は復活されたのです。それはわたしたち人間の想定を超えた、偉大な神の業がそこで起こされたということであり、それはわたしたちにとって全く予想外の出来事だということです。そしてそのことは、わたしたちにとってもそうだということです。 神がわたしたちに実現してくださる出来事は、わたしたちの予想を超え、思いを越えた出来事です。三日目の復活、それは、わたしたちにとってはとてもありえないと思える出来事がそこで起こされるということのしるしです。自分たちが期待したり、願ったことではなく、それをはるかに超える出来事が、神によって起こされていくということです。それは自分がひたすらこうなるようにと祈ったような、自分で予想できる出来事ではありません。それをはるかに越える、思いもかけない出来事を、神はわたしたちの上に実現してくださるのです。しかしそのためには三日間待たなければなりません。自分たちの期待、自分たちの願望、自分たちの祈りが、完全に打ち砕かれ、全く不可能となってしまうようになるまで、待たされるということです。それが「三日目」ということの意味でした。ホセア6章1、2節を読みました。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」。これは主イエスの三日目の復活を預言したものですが、わたしたちにもあてはめられることです。 石田学『日本における宣教的共同体の形成』に次の言葉が述べられています。「パウロは・・・ごく初期の信仰告白形式を引用して『聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと』をあげている。キリストの復活が最初からキリスト教徒にとって本質的なことがらであったことがわかると同時に、『三日目に』復活したことも、短い告白文に欠くことのできない重要な意義を持っていたことが明らかです。イエス・キリストは死んで『葬られ』た。イエスは死後ただちに復活したのではない。キリストは死んで『よみに下り』、・・・イエスを信じた者・愛した者たちは悲嘆と共に、イエスが完全に彼らの間から失われたことを葬りの儀式として確認した。苦難と悲嘆、そして死の時は、イエスにとってもイエスと関わる人々にとっても、ただちに取り除かれたわけではない。・・・母マリアや男女の弟子たちは、三日にわたる悲嘆の時を過ごしたのである。この事実は、キリスト教徒が苦難の時を体験し死の時を迎えるに際して、その苦難の継続性ゆえに落胆したり信仰を失ってしまったりしないための支えとなることであろう。なぜなら、主イエスは『三日目』によみがえられたのだから。キリストの復活は、常に未来のわたしたちの復活への希望を与えるのである」。「三日目の復活」、それはあらゆる人間的可能性が断ち切られる中で起こされる、わたしたちのための神の奇跡です。それはわたしたちの予想をはるかに超え、思いを越えたところで起こされる、救いの出来事です。しかしそのためには、三日間の苦しみと悩みが必要ともされます。それはいつまで終わるのか分からないまま、自分が抱え込んでいる問題であり、悩みです。まるで暗いトンネルの中を通っているかのような、先が全く見えない厳しい現実や困難のことでもあります。しかしわたしたちは希望があります。なぜならわたしたちの信じる方は、「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」方だからです。全く絶望的な状況のただ中で、人間的な可能性が一切断たれた状況の中で、神の救いの奇跡が起こされていく、そのことを信じ、待ち望むことができるからです。 「岩に掘った墓」、それは絶望とどんづまりの人生を象徴しています。結局わたしたちは、一人の例外もなくそこに行き着くのです。毎日を忙しく労しているわたしたちは、墓場に行き着くために労苦し、汗水を流して生きているのです。死ぬため、そして墓に葬られるために、毎日を忙しく生きているのです。わたしたちは、死ぬことが恐いです。なぜ恐いか、その先が分からないからです。誰も死から生還し、死の先にあることを教えてくれる人はいません。死んだ先はどうなるのか、それが分からないから恐いのです。しかもそこをわたしたちは、それぞれ一人でたどっていかなければなりません。しかしこのように死の影におびえて生きるわたしたちの人生に、主の十字架が立てられるのです。キリストの十字架の苦しみは、わたしたちのための苦しみでした。そこでの主の苦しみは、人生を苦しみをもって辿るわたしたちの良き理解者であるためだけではなく、その苦しみそのものを取り除くための苦しみでもあったのです。そしてこの世での苦しみの根源であり、またその極みとしての死の原因・根拠である「罪に対する神の怒り」を、ご自身の身と魂に負われ、それによって神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるために苦しまれたのでした。だからキリストにあって、苦しみはもはや本来の苦しみではなくなってしまったのです。苦しみには違いないとしても、苦しみの性質、苦しみの意味が変わってしまったのです。もはやわたしたちを絶望に追いやる苦しみではなく、むしろますます神へと望みを置くことへと追いやることにより、わたしたちに希望をもたらす苦しみとなったのです。その苦難とは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5章3、4節)ものとなり「神の栄光にあずかる希望」を与えるものとなったのでした。ですからキリストにある苦しみには希望があります。わたしたちが出遭う苦しみが、どれほど深く大きいものであったとしても、主の知りたまわない苦しみはなく、主の慰めえない苦しみもありません。主が通らなかった苦しみはなく、主はその苦しみの道もその通り方さえ知っておられます。そしてわたしたちの苦しみを苦しみでなくするためにこそ、主はわたしたちのために、その身代わりとなって、代わりにその苦しみをも背負ってくださったのでした。 その苦しみの最大のものこそ、わたしたちの「死」です。罪がもたらす報酬、その最大の苦しみとは、死でした。わたしたちの人生に死がある、この事実こそ、どんな楽しさをも吹き飛ばし、人生に暗い陰を投げ落していくものです。死、それが自分の死であれ、家族の死であれ、それはわたしたちにとって最大の苦しみをもたらすものであり、また苦しみそのものです。そして主が、あらゆる点で兄弟たちと等しくなられたとき、それは死に至るまで同じになってくださったということでした。主がわたしたちの苦しみを身と魂に負われたというとき、それはこの最大の苦しみである死をも代わりに負われたということです。キリストはわたしたちのために死んでくださった、それはわたしたちの罪を償うためでした。それによって、死がもはや死ではなくなるために、主は死んでくださったのです。罪に対する裁きとしての死、滅びとしての死が、この主の死によって変えられたのです。それはもはや、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入口となったからです。そこでペトロは言いました。1ペトロ1章3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と。「死者の中からのイエス・キリストの復活による生き生きとした希望」、それは「三日目」の復活ということなのです。