いつも主にあって喜びなさい(フィリピの信徒への手紙講解) 第4講:「生きることはキリスト」(フィリピ1章12~21節、2024年3月17日)

 

 

〔今週の御言葉-私訳と黙想 フィリピ1章12~21節 生きることはキリスト〕

12兄弟たち。わたしに関することが福音の前進をもたらしたということを、あなたがたが知ることをわたしは願います。13わたしの投獄がキリストにおいて起きたことが、近衛隊と他のすべての人々に明らかになりました。14そして主にある兄弟たちの多くが、わたしの投獄において確信し、いっそう勇敢に御言葉を語るようになりました。15一方の人々は妬みと争いから、他方の人々は善意からキリストを宣べ伝えています。16一方は、わたしが福音の弁明のために任命されていることを知っているので、愛からですが、17他方は、純真さからではなく党派心からキリストを宣べ伝えていて、わたしの投獄に苦難を起こそうとしているのです。18しかしそれが何でしょうか。とにかく見せかけであれ、真実であれ、あらゆる方法でキリストが宣べ伝えられているのですから、このことをわたしは喜び続けていますし、喜んでいくでしょう。19なぜなら、あなたがたの切なる祈りとイエス・キリストの霊の援助を通して、このことが結果的にはわたしを救いに至らせることを知っているからです。20わたしの切なる期待と希望にかなうことは、わたしが何も恥じることなく、むしろこの上ない大胆さにおいて、これまでのように今もまた、生きることを通しても死ぬことを通しても、わたしのからだにおいて、キリストが大きくなるということです。21わたしにとっては、生きるとはキリストであり、死ぬことは益なのです。

 

投獄されていたパウロの環境は、決して居心地の良いものではありませんでした。牢獄の監禁という物理的なものばかりではなく、投獄中のパウロを苦しませるためにと、福音宣教に励んでいる者たちがおり、それはパウロに対する妬みと党派心からのものだからでした。このような物理的のみならず精神的にも困難な状況に陥ったら、普通であれば平常心を失い、苛立ち、平静さを失うのではないでしょうか。気が狂わんばかりに追い詰められて、怒りを爆発されるのではないでしょうか。しかしパウロは、自分にとってとても平静ではいられない、このような環境の中にあっても喜ぶことができました。なぜならどのような動機であれ、とにかくキリストが宣教されているということも事実だからです。そしてパウロは何よりもそのことを喜ぶのでした。パウロの願いは、自分自身を通してキリストが大きくされるということでした。その偉大さが多くの人々に認められて、キリストが崇められるということでした。だから自分に対する苛立つような状況にあっても、そのことを意に介することがありませんでした。パウロの心を占めていたのは、キリスト御自身だったからです。キリストによって心を一杯に占められていたパウロは、そのキリストから生きる命をいただき、どんな心挫ける事態にあっても、そこから立ち上がらせられてきたのでした。それが「生きることはキリスト」というパウロの言葉の意味なのでした。