新約聖書講解  フィリピの信徒への手紙  第2講:「善い業を始められた方が」(フィリピ1章1~6節)

新約聖書講解  フィリピの信徒への手紙

 第2講:「善い業を始められた方が」(フィリピ1章1~6節

 

〔今週の御言葉-私訳と黙想 フィリピ1章1~6節 善い業を始められた方が〕

1キリスト・イエスの奴隷(である)パウロとテモテ(から)、フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる人たち、そして監督たちと執事たち(へ)。2恵みがあなたがたに、そしてわたしたちの父である神と主イエス・キリストからの平和が(あるように)。3あなたがたのすべての思い出において、わたしはわたしの神に感謝しています。4あなたがたすべてのための、わたしのすべての祈りにおいて、いつも喜びと共に祈りを行っています。5最初の日から今日まで、福音の中にあなたがたの交わりがある(からです)。6わたしはこのことを確信しています。あなたがたの中で善い業を始めた方が、キリスト・イエスの日まで(それを)ずっと完成し続けてくださるということを。

 

パウロはフィリピの兄弟姉妹たちを覚えて祈るたびに、喜びと感謝をもって祈ったと語ります。もちろんそれはフィリピの兄弟姉妹たちとの愛に根差した豊かな交わりによってパウロ自身が支えられているからでもありますが、彼らとの交わりが素晴らしいから、だから喜びと感謝が溢れ出て来るというのではありません。パウロは彼らを見つめることで喜びと感謝と満ち溢れたのではなく、彼らの中で生きて働かれている神を見、神が彼らの中で行っておられる「善い業」を見ることによって、喜びと感謝に満ち溢れているのです。なぜなら「あなたがたの中で善い業を始めた方が、キリスト・イエスの日まで(それを)ずっと完成し続けてくださる」と確信しているからです。それでは神が彼らの中で始められた「善い業」とは何でしょうか。それはまず彼らに与えられたキリスト・イエスに対する「信仰」と考えることができます。そしてその結果、彼らが行うようになる「善い業」であり、そのように彼らが聖化されていくこと、そのように「聖なる者」にふさわしく整えられていくことではないでしょうか。しかしさらにそれは何よりも彼らの「救い」、永遠の命ではないでしょうか。彼らがキリスト・イエスの信仰にあずかり、救われて、聖なる者へと変えられていくことで辿り着く救い・永遠の命のことではないでしょうか。そのようにフィリピの兄弟姉妹たちの中に始められた神の業が必ず完成していくことなのです。