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「占星術の学者たちの礼拝」(マタイによる福音書2章1~12節)

「占星術の学者たちの礼拝」(マタイによる福音書2章1~12節)

 

1.異常な天体現象に導かれて

マタイによる福音書2章1~12節は、通常、教会暦では、公現日(または顕現日、エピファニーと言う)に開かれる箇所です。この公現日は、元来は16(又は7)日に固定されており、東方教会ではこの日が主イエスの降誕日(クリスマス)となります。しかし1225日を降誕日とした西方教会では、この日を、東方からの占星術の学者たちが主イエスを礼拝し、それによって主イエスの王であることが公に現された日として祝いました。

 

主イエスが生まれたのはいつ頃かということを確定することには困難がありますが、大まかなことを予想することはできます。まず主イエスが生まれたのは、「ヘロデ王の時代」でした。このヘロデは、後に出て来るヘロデ(息子アンティパスや孫のアグリッパ1世、ひ孫のアグリッパ2世)の先祖で、通称へロデ大王と呼ばれた人物で、紀元前73年に生まれ、紀元前4年に死去しますから、主イエスの誕生はその間ということになります。ヘロデの在位中に様々な天体現象が起こりますが、有名なのは紀元前12年のハレー彗星の出現と、紀元前7年の木星と土星の大接近でした。そして主イエスの誕生後、ほどなくヘロデは死去しますから、大きな星の出現の出来事と考え合わせるなら、この紀元前7年の惑星同士の大接近が可能性として考えられます。ここでヘロデの許を訪ねてきた占星術の学者たちは、この天変地異を観測して、そこに「ユダヤ人の王」の誕生を予測したのでしょう。マギと呼ばれる彼らは、魔術と占いが混在しているとはいえ、近代天文学にまさるとも劣らない高度な観測技術によって、洪水や飢饉、不吉な前兆とされる日食や月食、その他の天体現象を予測し、農業ひいては政治の基礎となる暦を作成し、さらには戦争の可否や条約締結などすこぶる政治的な事柄について、王に施策を進言し、吉凶を予測し、災いを防ぐなどして、国家の政治に甚大な影響力と発言力をもつ王家御用達の政策助言者なのでした。彼らは、ユダヤから見て「東の方」、つまりペルシャからやって来たと考えられます。彼らがやってきたと思われるユーフラテス中流のシッパルには天文台があり、そこでの天体観測によって暦が作成され、天変地異が予測されていました。そこで紀元前7年に、木星が魚座付近で土星に大接近することが、あらかじめ予測され、それが5回も観測されたという記録が粘土板文書で残されています。そして木星は世界支配の星、魚座は終末時代、土星はパレスチナの星とされていましたので、それはパレスチナに終末時代の支配者が現われるということを意味すると理解されました。そこで彼らは「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」のです。この希有な天体現象はローマでも、エジプトのアレキサンドリアでも観測され、それに別の解釈が与えられていました。時は世界を支配するローマが、共和政から帝政へと移行し、カエサルの養子オクタヴィアヌスが宿敵アントニウスとクレオパトラを破って、プリンケプス(ローマ第一市民)そしてアウグストゥス(尊厳者)と、つまり実質的な皇帝になった時代のことでした。木星はアウグストゥスの属するユリウス家の星、土星は黄金時代を象徴するものとされたので、この現象は皇帝アウグストゥスが絶頂期を迎えるしるしと歓迎されたのです。すでにアウグストゥスは、内乱に苦しんだ世界に解放と救いをもたらした「救い主」、ゼウス神の化身で人間の姿をとった「神の子」、全世界の支配者にして「主」として崇められ、この良き前兆を見たアレキサンドリアでは、彼を世界支配者、解放者、救済者として賛美する碑文が建立されます。

 

このように、この出来事は当時世界中で観測され、注目された現象でしたが、その解釈には二つの別の解釈が成立しました。まことの「救い主(ソーテール)、主(キュリオス)、神の子(ヒュイオス・セウー)」とは、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)を実現したアウグストゥスなのか、それとも誰にも知られず密やかに誕生されたナザレのイエスなのかということです。マタイは、当時誰もが知っていたこの出来事を、イエス・キリストの預言の成就として、ユダヤ人と世界中の人々に紹介し、ナザレのイエスこそ、まことの「救い主、主、神の子」であることを明らかにしたのでした。すでにマタイの時代のキリスト者は、まさにこの告白のゆえに逮捕され、家を追われ、家族が離散し、職を失い、拷問を受け、殺されていたからでした。彼らにとっては、「イエス・キリスト(イエスはキリスト=メシアである)」という呼び名こそ彼らの信仰告白でした。「主イエス・キリスト」(イエスはキリストであり、主=キュリオスである)とは、彼らにとって命がけの信仰告白なのでした。なぜなら世をこぞって、キュリオスはカイザル(皇帝)であると賛美され、礼拝され、その礼拝を拒絶することは死と破滅を意味したからでした。クリスマスになると繰り返し想起されるこの出来事は、マタイの時代、命を懸けた信仰の告白だったのでした。

 

2.旧約預言の成就としての主イエスの誕生

 マタイがこの福音書によって明らかにしようとしたことは、イエス・キリストが律法の成就者であり、完成者であるということでした。そして主イエスの誕生は、旧約聖書の預言を成就したものであることを明らかにするのが、この2章の物語です。占星術の学者は「ユダヤ人の王」を礼拝するためにわざわざユダヤまで来訪します。しかしこの「ユダヤ人の王」という呼称こそ、ヘロデ大王の公的称号であり、彼が一族郎党・近親者を虐殺してもなお保持しようとしてきたものでした。その地位を脅かす子供が誕生したとの報は、ヘロデを驚愕させ、狼狽させただけではなくて、なんとその救済者を待望し続けてきたはずのユダヤの人々、とりわけエルサレムの人々を不安に陥れます。ヘロデの恐れには根拠がありました。彼には半分イドマヤ(エドム)の血が流れており、純粋な血統を重んじるユダヤ人からは疎んじられていました。主イエスの時代、「ユダヤ人の王」はメシアと同義で用いられ、そのメシアが誕生したとあっては、ヘロデが恐れるのも無理はありません。力で押さえつけてきたユダヤ人がその子供を「ユダヤ人の王」として擁立し、自分に反旗を翻してくることになるかもしれなかったからです。ヘロデは直ちに行動に移し、反乱の芽をつぶそうと図ります。エルサレムの人々が不安を覚えたのは、これまで妻や息子さえも情け容赦なく虐殺してきたヘロデが、今度はどんな恐ろしい虐殺を企てるかもしれないという思いからでした。そしてその不安が的中するのが、ベツレヘムにおける幼児虐殺事件でした。

 

この出来事は、救い主の誕生という喜ばしい出来事に水を差す、理不尽で不可解な事件ですが、そこでかろうじて虐殺を免れてエジプトに落ち延びる主イエスの姿に、後の十字架における苦難が暗示されているのです。ヘロデは、宗教指導者たちを「集めて」、メシアがどこで生まれるかを問いただし、それがベツレヘムであることをつきとめますが、この政治指導者と宗教指導者たちが相集い、メシア、つまり油注がれた方に逆らうことが、詩編で言い表されていました。「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」(2編2節、使徒4章26節)。これは後に、総督ピラトと最高法院に結集する祭司長・律法学者たちによって十字架へと追いやられていく主イエスを暗示していくのです。そこで主イエスは、まさに「ユダヤ人の王」として苦しめられることになります(27112937節)。そしてまさに、「ユダヤ人の王」として十字架につけられた主イエスこそ、預言されてきたメシアその人なのでした。その王とは、地上の繁栄と栄光に輝き、武力と暴力によって地上の帝国に君臨する王ではなくて、卑しめられ、軽んじられ、ないがしろにされながら、十字架を王座とする苦難の僕なのでした。そしてその方こそ、「イスラエルの牧者」としてイザヤ、エレミヤ、ミカが預言した「羊飼い」なのでした。こうしてベツレヘムで、幼子と対面した東方の占星術の学者たちは、その幼子にひれ伏して礼拝を捧げます。この幼子を「拝む」という言葉は、もっぱら神に対して用いられる言葉で、「跪拝する」ということです。人間には決してこのようなことをしないユダヤ人からすれば、それがこの幼子にあてはめられたことは驚きであり、それによってマタイはまさにこの方こそ神ご自身であることを明らかにしようとしたのです。学者たちは、単なる尊敬の表現として、主イエスにひれ伏し、拝んだというのではなくて、まさにこの方を神として「礼拝」したのでした。そして彼らの心からの捧げ物を主イエスに献上します。それが、「黄金、乳香、没薬」でした。

 

3.黄金、乳香、没薬-主イエスへの最上の贈り物

彼らの来訪と礼拝は、終末における異邦人によるエルサレム巡礼の預言の成就と考えられています。「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」(イザヤ60章1~6節、詩編72編8~17節)。ここで王たちから黄金と乳香を捧げられる方は、乏しい人、貧しい人、弱い人、虐げられる者を助け、憐れみ、救い出す方なのです。これにより、主イエスこそ旧約預言者が預言してきた待望のメシアであるということを明らかにし、それと共にその方が、ユダヤだけではなく全世界の人々が待望してきた救い主でもあられ、その方の前に世界中の人々が膝まずいて礼拝を捧げるということが明らかにされるのです。ここに登場する占星術の学者は、セム・ハム・ヤフェトによって増え広がっていった世界中の民のいわば代表とみなされました。ですから聖書には三人とは記されていないにもかかわらず、この学者たちはたいてい三人で、しかも白色・黒色・黄色人種として絵画に描かれてきました。それは彼らがいわば人類の代表として、救い主なる主イエスの前に膝まずいていることを意味しているということです。ここでマタイは、イザヤ(2章11節)、ミカ(6節)、ホセア(15節)、エレミヤ(18節)の預言の成就として主イエスの誕生を語り、それが「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」(23節)ことを明らかにしました。

 

 

 ここで占星術の学者が主イエスに献げるのが、「黄金、乳香、没薬」です。ここで主イエスに献げられた「黄金」とは、主イエスが王であることを表しました。「乳香」は、神殿で用いられるもので、神の前へと立ち上っていくわたしたちの祈りを表すものとされ、神に献げられるものでした。つまり主イエスが神でもあられることを表します。そして「没薬」は、やがて主イエスが十字架で死なれる備えとして献げられたものなのでした。そして実はこれらは彼らの商売道具でもありました。この「黄金、乳香、没薬」によって彼らは星占いをしていた、その道具を主イエスに献げてしまったのでした。彼らは自分の持てる最上のものを主イエスに献げたということもできますが、別の見方をすればこれで彼らはもはや商売を続けられなくなる、つまり彼らはこれによってこれまでの占星術をやめてしまい、その仕事を放棄して、彼らの人生そのものを主イエスに献げたということもできます。彼らの人生そのものを献げる、主イエスに対するこれ以上の贈り物があるでしょうか。それを彼らは彼ら自身を贈り物として主イエスに献げていったということなのでした。それはまた彼らが二度と星占いはしない、つまりこれまでの古い生き方には戻らないということをも意味していました。主イエスを王とし、まことの神を導きとして生きていく者には、もはや星占いは必要ないからです。これまでは自分の知恵と技術、経験と実力に頼って生きていました。しかし主イエスを自分の主、王としたときから、その必要はなくなりました。これからは、この方の導きに従って生きていけば良いからです。占星術の学者たちは、自分の持てる最高・最上のものを主イエスに献げていきました。それは自分自身でした。わたしたちは、この方を前にして、何をお献げしていくでしょうか。