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5月31日特別講(使徒言行録2章1〜21節)

聖霊の力による使徒の働きと教会の発展(使徒言行録講解)

特別講:新しい契約の成就としての聖霊降臨(使徒言行録2章1~21節)5月31日

 

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒2章1~21節 新しい契約の成就としての聖霊降臨〕

 さて五旬祭(ペンテコステ)の日が満たされて、すべての人々が共に一つになって集まっていました。すると突然、天から激しい風が吹きつけてくるような音がして、彼らがずっと座っていた家全体を満たしました。そして火のような数々の舌が分かれて彼らに現れ、彼らおのおの一人一人の上にとどまりました。するとすべての人々が聖霊に満たされて、霊が彼らに語り出させるままに、異なる言葉で語り始めました。

 ところでエルサレムには天の下のあらゆる国々からの敬虔なユダヤ人たちが住んでいました。ところがこの音が起こったので、大勢の人々が集まって来ましたが、おのおの一人一人が、自分の国の言葉で語っているのを聞いて、あっけにとられました。そして驚きながら言いました。「見なさい、話しているこれらの人々は、みなガリラヤの人々ではないか。それなのに、どうしてわたしたちがそれぞれに、わたしたちの生まれた国の言葉を聞いているのだろうか。パルティアとメディアとエラム、またメソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポントスとアジア、フルギィアとパンフリア、エジプトとクレネに接するリビアの地方に住んでいる人々、またここに滞在しているローマ人、ユダヤ人たちや改宗者たち、クレテやアラビアの人々です。わたしたちが自分たちの言葉で彼らが神の偉大な御業を語っているのを聞いています。」そこですべての人々は非常に驚き、ひどく困惑して、ある人は他の人に言いました。「これはいったいどういうことなのだろうか。」しかし他の人たちはあざけって、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言いました。

 そこでペトロは十一人と共に立ち上がって、声を張り上げ、大声で語りました。「ユダヤの方々、そしてエルサレムに住んでいるすべての方々。あなたがたにこのことを知ってもらいたい。わたしの言葉に耳を傾けてください。あなたがたが思っているように、この人々は酔っているのではありません。朝の第三時〔=九時〕だからです。むしろこのことこそ預言者ヨエルによって言われていたことなのです。

『神は言われる。終わりの日々に、わたしはわたしの霊をすべての肉(である者=人間)に注ぎ出す。するとあなたがたの息子たちやあなたがたの娘たちは預言するだろう。またあなたがたの青年たちは幻を見るだろう。そしてあなたがたの老人たちは夢を見るだろう。そしてわたしの僕たちの上に、さらにわたしのはしためたちの上にも、それらの日々にはわたしの霊を注ぎ出すだろう。すると彼らは預言する。またわたしは、上では天の中に不思議を与えよう。また下では地の上でしるしを(与えよう)。血と火と煙である。太陽は暗闇に変えられるだろう。月は血に(変えられるだろう)。主の大いなる、そして輝かしい日が来る前に。そして、主の名を呼び求めるすべての人々は救われるだろう。』

 

 聖霊降臨の出来事は、かつて予告されていた主イエスによる「聖霊と火による洗礼」でした。それにより主は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われ」ます。そのようにわたしたちの心にある様々な不純物、罪や情欲といった汚れたもののすべてを焼き払い、きよい聖なる心とするために聖霊が働いてくださるということです。そしてこのように聖霊がわたしたちを聖なる心へと変えてくださるという働きをされることはエゼキエルによって預言されていたことでした。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と。そのために結ばれたのがエレミヤが預言した「新しい契約」でした。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と言われたもので、それは「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というものです。それは主イエスの血によって締結されました。わたしたちは毎月の聖餐式において、この新しい契約にあずかり続け、その恵みに浴し続けています。こうして罪にまみれて死んでいるわたしたちの心を新しくし、新しく生まれ変わらせるために一人一人に火の聖霊が注がれました。そのためにわたしたちの罪のために裂かれた主の肉と流された主の血を覚えつつ喜びと感謝をもって聖餐式に預かり続けていきましょう

 

1.聖霊と火による洗礼

 わたしたちはペンテコステというと、二階座敷で弟子たちに聖霊が注がれた出来事、聖霊降臨の出来事を意味しますが、実は本来はそうではなくペンテコステとはユダヤ教の三大祭りの一つ、五旬祭(過越から七週後、五十日祭)のことでした。紀元30年のペンテコステ(五旬祭)の時に弟子たちに聖霊が注がれるという出来事が起きたので、それ以来ペンテコステが最初の聖霊降臨の出来事を意味するものとなったのです。ここではその最初の聖霊降臨の出来事を、これまで考えてきた「恵みの契約」の視点から考えてみましょう。使徒言行録を見ると、聖霊降臨の出来事は、聖霊を待ち望みながら祈る群れに起こり、彼ら一人一人に聖霊が注がれるという出来事が起こりました。彼らは祈っていたら、たまたま聖霊が降臨したというのではなく、主イエスが命じられたことに応じて彼らが聖霊を待望しつつ祈っていた時に起きた出来事でした。主イエスは昇天する前に、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)、また「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と主は命じられました(使徒1章4、5節)。その約束が、祈りのうちに聖霊を待望していた群れに実現します。「わたしたちの神は来られる。黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き、御もとには嵐が吹き荒れている」と詩編の詩人が詠うとおり、それはヨエルの預言が成就したものであることをペトロは明らかにします。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。云々』」(2章16節)。これはヨエル書3章1~5節の預言の成就でした。そこでこのヨエルの預言が確かに成就したことを信じさせるために、聖霊は目に見える顕著な形で注がれました。ヘブル語のルーアッハも、ギリシャ語のプニューマも、どとらも「霊」を意味する言葉ですが、それはまた嵐のような「激しい風」や「息・息吹」でもあります。かつて神は、イスラエルのために「驚くべきことを成し遂げられる」ことを約束しておられました(ヨエル書2章26節)。それが「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」という神の霊の注ぎの約束でした。

 

しかしこうして神の霊が注がれたのはどうしてでしょうか。洗礼者ヨハネは主イエスについて次のように語っていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない、その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」(ルカ3章16節)。そこでここでは使徒2章3節にあるように「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」のでした。つまり聖霊降臨の出来事は、主イエスが授けると約束されていた「聖霊と火による洗礼」のことなのでした。ここでは単に「聖霊による洗礼」と言われるのではなく、「聖霊と火による洗礼」と言われていることに注意してください。聖霊の洗礼は、火の洗礼でもあるということです。聖霊が注がれるということは火が注がれるということでもあるということです。それではここで言われる火とは何でしょうか。洗礼者ヨハネはこうも言いました。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカ3章17節)。ここで火は、不要な穀物の殻を焼き払うものとして言及されます。それと同じようにわたしたちの心にある様々な不純物、つまり罪や情欲といった汚れた不要なもののすべてを焼き払い、きよい聖なる心とするために聖霊が働いてくださるということを意味します。金は最初から純金として存在するのではなく、鉱石の中に含まれています。それを何度も製錬することで、中の不純物が燃やされて、純金が取り出されるようになります。火による製錬によって、すべての不純物が燃やし尽くされることで、純粋な金へと純化されると共に、もろい鉱石が頑丈な金にされることで強度を増すことにもなります。そのようにわたしたちの心も、主イエスが「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」必要があります。そのために火の聖霊をわたしたちに授けてくださいました。それがペンテコステで起きた出来事でした。そしてこのように聖霊がわたしたちを聖なる心へと変えてくださるという働きをされることは、預言者エゼキエルによって預言されていたことでした。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行われる。」(エゼキエル36章26、27節)。聖霊が火となってわたしたちの心の中の不潔なもの、不純なものを焼き払われるのは、それによってわたしたちの心を新しいものとして造り変えるためです。主イエスの許からわたしたちの許に遣わされた聖霊が、わたしたちの心を新しい心に造り変えてくださる、それがペンテコステで起きた出来事なのでした。

 

2.「新しい心・新しい霊」を授けられる約束

これまでも預言者は繰り返し、民が真実に神に立ち返り、悔い改めるように呼び掛け続けてきました。しかしそのためには神の助けが必要でした。なぜなら悔い改めても悔い改めても、なお罪から離れることができない人間の弱さがあって、それは人間自身の力によっては解決できないものだからです。そこで神への真実な立ち帰りのために、神が一人一人にご自分の霊を注がれるという預言がなされます。神が一人一人に宿り、その頑なな心を造り変え、生まれ変わらせて、神へと向け、神に従う者としてくださるためです。それがエゼキエルが預言した「新しい心、新しい霊」でした。エゼキエル18章31節ではこう呼び掛けられています。「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」しかしそう呼び掛けても、イスラエルの民は自分たち自身の力で主なる神へと立ち帰ることも、新しい心を造り出すこともできませんでした。だからそれを神ご自身がしてくださると約束してくださったのです。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。またわたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。」。こうして真実な悔い改めは一人一人の中に働く神の霊の働きであり、心が変えられることによってなされるのです。ヨエルはその神の霊による生まれ変わりを預言したのでした。主イエスご自身も「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。そしてそれが「水と霊」によることだとも。霊による誕生、新しい生まれ変わりは、聖霊を注がれた者の内に起こされる出来事です。そして今わたしたちが主イエスを信じていると言えるなら、あなたの内でたしかに聖霊は生きて働いておられ、また事実、新しく生まれ変わって、霊的な誕生を遂げているのです。なぜなら誰でも「聖霊によらなければ『イエスは主である』とは言えない」とパウロが語っているからです(1コリント12章3節)。もともと土から造られた人間は、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節)とあるように、神の霊を必要としています。「息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る」からです(詩104編29節)。わたしたちが真実に生き生きと生きていくうえでなくてはならないわたしたちの「命の息」とは、神の霊を豊かに絶えることなく注いでいただくことでした。それが今このペンテコステでの聖霊降臨において実現したのです。ペトロはそのことを明らかにして、ここでの不思議な出来事の意味を説き明かしていくのでした。

 

3.エレミヤ・エゼキエルによって預言された「新しい契約」

 このエゼキエルが預言した「新しい心、新しい霊」の預言は、エレミヤにおいては「新しい契約」として預言されていることでした。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31章31~34節)。またこうも約束されました。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」(同32章38~40節)。このエレミヤの預言を受けて預言したのがさきほどのエゼキエルの「新しい心・新しい霊」の預言でした。その契約がなぜ「新しい契約」と言われるかというと、「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」と言われているように、古い契約と対比して言われているものです。それでは「かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」とは何かというと、それはモーセ契約のことでした。

 

今は使徒言行録7章にあるステファノの説教を通して、旧約聖書に一貫する「恵みの契約」について考えています。この契約は最初アブラハムと結ばれたのでアブラハム契約と言われまして、今はそのアブラハム契約がアブラハムの子孫に継承されていることを見ています。アブラハムと結ばれた契約は、ただアブラハム一人だけではなくてその子孫とも結ばれたものでした。そこでアブラハムの子イサク、孫のヤコブ、ひ孫のヨセフへと受け継がれてきたことを見ていきました。そして神はこの契約のゆえにエジプトに下り、そこでの苦役に苦しむイスラエルの民、つまりアブラハムの子孫たちを救い出されることになります。そのために立てられたのがモーセ、そしてヨシュアですが、神は彼らとも「共にいる」ことを約束して、アブラハム契約が継承されていきます(出エジプト記3章12節、申命記31章6~8節、ヨシュア記1章5、9節)。しかしそれだけではなく、神はモーセを通してイスラエルの民と別の契約を結ばれます。それが「モーセ契約」と言われるもので、それはアブラハム契約と同様、「恵みの契約」の中の一つですが、『十戒』と『契約の書』を契約条項として、動物犠牲の血が注がれることで、神とイスラエルの間に厳粛に結ばれます(出24章3~8節)。そこでモーセは祭壇に振りかけた血の残りを、今度は民に振りかけて言いました。「見よ、これは主がこれらのことばに基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と。ここで「これらのことば」というのは、『十戒』と『契約の書』を意味します。そして彼らは「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と約束します。神はこの契約を結ぶにあたって、こう約束されました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間になってわたしの宝の民となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と(出19章5、6節)。こうしてエジプトにおいては奴隷であった奴隷の集団を聖なる者とし、「祭司の王国、聖なる国民」とするための契約に結ばれたのがモーセ契約であり、それは血を流すことによって締結された厳粛な契約でした。わたしたちは、今この契約を「新しい契約」として受けています。この契約にもかかわらず、イスラエルの民は反逆に反逆を重ねて、ついに王国分裂と北イスラエル王国・南ユダ王国の滅亡を招き、アッシリア捕囚とバビロン捕囚をこうむることになります。それは彼らがモーセ契約を破ったことに起因するものであるため、契約を破ったイスラエルの民に対して神は「新しい契約」を結ぶことを予告されます。それがエレミヤが預言した「新しい契約」でした。そしてエゼキエルは、この「新しい契約」の内実が何であるかを明らかにしたのでした。

 

4.主イエスの血を流すことで締結された「新しい契約」

 このエレミヤの預言を受けて預言したのが前述のエゼキエルの預言でした。彼はこう預言しました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行われる。」(エゼキエル36章26、27節)。この預言はエレミヤの「新しい契約」の約束を前提として預言されたものです。そしてこの預言は主イエスによって成就しました。モーセ契約の締結に当たり、血が流されましたが、それは「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」からでした。「だから、最初の契約もまた、血を流さずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、『これは、神があなた方に対して定められた契約の血である』と言ったからです。・・・こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と(ヘブライ9章19~22節)。

 

 わたしたちはこの「新しい契約」を毎月の聖餐式において更新し続けています。「新しい契約」という言葉は、まさに聖餐式の中で約束されています。キリストは「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。・・・まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」と『ヘブライ人への手紙』の著者は約束しました(同12、14節)。わたしたちはキリストの血によって、罪の赦しを得させる新しい契約・永遠の契約に入れられました。そこで主イエスは最後の晩餐において、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と語り(マタイ26章28節)、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われたのでした(ルカ22章20節)。パウロはこの主の晩餐について「この杯は、わたしの血によって立てられた新しい契約である」と語ります(1コリント11章25節)。このように罪を贖うことによって罪の赦しにあずからせる血による契約は、主イエスの血によって締結され、破られた前の契約と比して「新しい契約」と呼ばれて、わたしたちもそれに預かる者とされたのでした。ペンテコステにおいて起きた出来事は、この「新しい契約」が真実に成し遂げられたことを証しするものとして、エレミヤとエゼキエルが預言したように、罪にまみれて死んだわたしたちの心を新しく生まれ変わらせて、「新しい心・新しい霊」にするために授けられた、主イエスによる「聖霊と火による洗礼」に他なりません。そしてそれによって「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行われる」という約束が真実にわたしたちの内に実現していくことになります。罪にまみれて死んでいるわたしたちの心を新しくし、新しく生まれ変わらせるために一人一人に火の聖霊が注がれました。そしてそれによってわたしたちの内に新しい契約が成就します。新しい契約は聖霊と火の洗礼を授けられることによって成就します。そのためにわたしたちの罪のために裂かれた主の肉と流された主の血を覚えつつ喜びと感謝をもって聖餐式に預かり続けていきましょう。