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2月7日(ルカ9章18~27節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ9章1823節 自分の十字架を背負って従う〕

 さて、彼(イエス)が一人だけで祈っておられたときに起こったことでした。弟子たちは彼とずっと一緒にいました。すると彼は彼らに尋ねて言われました。「群衆はわたしのことを誰であると言っていますか。」そこで彼らは答えて言いました。「洗礼者ヨハネ(である)と、別の人はエリヤ(である)と、また別の人は昔の預言者の誰かがよみがえった(と言っています)。」すると彼は彼らに言いました。「それではあなたがた自身は、わたしを誰であると言いますか。」そこでペトロが答えて言いました。「神(から)のキリスト(です)。」

 すると彼は彼らに厳しく警告して、このことを誰にも言わないように命じられました。そして彼は言いました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老たちと祭司長たちと律法学者たちから拒絶され、殺され、そして三日目に起こされ〔復活し〕なければなりません。」そして彼はすべての人に対して言い続けられました。「わたしの後について来ることを願う人は誰でも、自分自身を否定し、毎日、自分の十字架を背負って、そしてわたしに従って来なさい。」

*( )は原文にないが説明のために付加した部分、〔 〕はもう一つの訳

 

 ペトロの信仰告白を受けて、主イエスはご自分が苦難のメシアであることを明らかにされます。そして十字架への道を歩む主イエスにつき従う者も、同じように自分の十字架を背負ってついて来るようにと求められます。わたしたちはそれぞれに十字架を背負わされています。それはある人にとっては試練や問題、別の人にとっては病気や痛みであるかもしれません。あるいは自分をがんじがらめにする重い負担や束縛であるかもしれません。しかし主の十字架は、御自分のためではなく、わたしたちのためのものでした。他者のためのものでした。つまり十字架とは、自分のための苦しみではなく、他者のための苦しみであり、他者のために労苦し、涙し、困難を引き受けることです。主イエスがわたしたちそれぞれに委ねたあの人に仕え、この人のために労すること、それが自分の十字架です。そこでの労苦は喜ばしいものばかりとは限りません。自分の心をすり減らすような労苦であったり、重い負担にあえがされる困難であるかもしれません。どうして主はわたしたちに十字架を担わさせるのでしょうか。それは自己中心に生きる古い自分に死ぬためです。十字架とは、古い自分が死ぬ場所です。そうして新しい自分となって生まれ変わり、他者のために喜んで生きる者へと自分が造り変えられていく場です。ですから背負わせられた自分の十字架をしっかりと担いながら、主イエスの後に従い続けて行きたいと思います。