第22課 油注がれた預言者キリストとわたしたち(問31、32、その1)

ただ一つの慰めに生きる-『ハイデルベルク教理問答』によるキリスト教信仰の学び


第22課:油注がれた預言者キリストとわたしたち(問31、32、その1)


1.キリストとは

 わたしたちはごく普通に、わたしたちの救い主をイエス・キリストとお呼びしますが、

それを主イエスの姓名と誤解している場合があります。イエスは主の名前ですが、キリス

トは姓ではありません。むしろこれはキリスト教信仰の核心となる「イエスはキリスト=

メシア」という信仰告白なのです。主イエスに初めて出会ったアンデレが兄弟シモン(ペ

トロ)に、「わたしたちはメシア-『油を注がれた者』という意味-に出会った」(ヨ

ハネ1章41節)と言っているとおり、このキリストとはヘブライ語のメシア、即ち「油注

がれた者」という意味の言葉のギリシャ語であって、単なる姓名や称号なのではありませ

ん。昔イスラエルでは、神の働きを担い、国を成り立たせる大切な職務に就くとき、オ

リーブの香油を頭に注がれました。それはその職務とそれに必要な賜物が、その人を立て

られた神から授けられたことを表すもので、その賜物は神の霊と共に注がれたことを表わ

しました。それらの職務とは、具体的には「預言者・祭司・王」のことですが、やがて

イスラエルを救うために神から遣わされるメシアは、この三つの職務を兼ね備えた方で

あることが期待されるようになり、そのような救い主が待たれるようになりました。そ

れがメシア、即ちキリストです。そして旧約聖書に出て来る「預言者、祭司、王」は、や

がて来るべきメシアを指し示す予表、予型として理解されたのでした。わたしたちの救い

主は、なにか漠然とした救い主なのではなく、キリスト、即ちわたしたちの預言者であ

り、祭司であり、王となられた方として救い主であるということです。『ウェストミンス

ター小教理問答』では、「キリストは、わたしたちの贖い主として、どういう職務を果た

されますか」との問いに、「キリストは、わたしたちの贖い主として、預言者、祭司、王

の職務を、へりくだりと高挙とのどちらの状態においても果たされます」(問23)と答

えます。


 それでは主イエスは、いつ油(聖霊)を注がれてキリストとされたのでしょうか。それ

は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときでした。「聖霊が鳩のように目に見える姿で

イエスの上に降って来た」(ルカ3章22節)。このとき、主は聖霊を与えられて、油注がれ

たキリストに任職されたのです。それを確証したのが、そのときに響いた天からの声でし

た。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、それはキリストとされた主

イエスを祝福する父なる神の声でした。そこから主の救い主・キリストとしての生涯と働

きが開始されたのです。逆にこの聖霊による聖別と力の賦与があるまでは、その働きを始

められることはなく、聖霊が新たに注がれたことをもって、初めて贖い主としての御業が

始められました。その働きのために、主は聖霊を必要とされたのでした。なぜなら主が

人間として地上を歩まれるときに、その人間性を聖めるために聖霊を注がれる必要があっ

たからであり、贖い主としての職務を果たすためにも、聖霊の助けを必要としたからでし

た。そしてこの聖霊の油注ぎによって、主イエスは神から正式にメシア(救い主)として

立てられ、その職務に任命されたのです。このことを主は、生まれ故郷ナザレの会堂の礼

拝で宣言なさいました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知ら

せるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4章18節、イザヤ61章1

節)。こうしてイザヤのメシア預言が成就しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌

えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、

思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」(11章1~

3節、42章1節参照)。


 それは「神の国」の福音を宣教する力を与えるものであり、また奇跡を行う力の源で

もありました。それは悪霊追放の奇跡の出来事から知られます。ファリサイ派との論争で

「わたしが神の霊で悪霊を追い出している」(マタイ12章28節)と主は言明され、この奇跡

を悪霊に帰するのは聖霊を冒瀆することだと言われました。これらの主の御業をつぶさ

に見たペトロは「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が

共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に抑えつけられていた人々をことごと

く癒しながら、巡回されました」(使徒10章38節)と証言します。このように主イエスの救

い主としての働き、つまり「神の国」の福音宣教と奇跡とは、聖霊から与えられた力に

よってなされたものでした。 そして聖霊は、キリストの成し遂げた贖いをわたしたちに

もたらす働きをされるだけではなく、その贖いを完成されるためにも働かれたのでした。

その完成の仕上げが、キリストのよみがえりでした。「キリストを死者の中から復活させ

た方の霊」とは聖霊です。聖霊がキリストをよみがえらせ、それによって贖いの御業を完

成されたのです。それは「あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死

ぬべき体を生か」すため、わたしたちもよみがえって、キリストにある新しい生命に生き

る者とされるためでした(ローマ8章11節)。


2.「預言者」としてのキリスト

 主イエスは、「油注がれた方」つまり聖霊の注ぎを受けて神の特別な職務に就かせられ

た方であり、それは「預言者、祭司、王」なる方ですが、それはキリストが預言者、祭

司、王としてお一人であられたように、この三つの職務はバラバラのものではなく一つの

ものだということです。それでは主イエスがキリスト、つまり「預言者、祭司、王」であ

るとはどういうことでしょうか。預言者であるとは、「わたしたちの贖いに関する神の

隠された熟慮と御意志とを、余すところなくわたしたちに啓示」することでした。つまり

神の救いの御心を告げ知らせる働きです。メシア・キリストの到来を待望していたユダヤ

人たちは、洗礼者ヨハネや主イエスについて、「あなたは、あの預言者なのですか」(ヨ

ハネ1章21、25節)と問うたり、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」

(同6章14節)とか、「この人は、本当にあの預言者だ」と言っていますが(同7章40

節)、それは「あの預言者」と言いうる人の到来が予告されていたからでした。神はモー

セに、「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口に

わたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」(申命

記18章18節、15節参照)。そのような伝承があるので、サマリアの女性は主イエスに、

「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られ

るとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と語りました。そしてその女

性に主イエスが答えられたことは、「それは、あなたと話しているこのわたしである」と

(ヨハネ4章25、26節)。ここで主は、モーセが預言した「あの預言者」がご自分であ

ることを明らかにされました。そしてその方こそ、まことの神について、また神がわたし

たちに求めておられることについて、すべてを明らかにしてくださる方なのでした。「神

は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた

が、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1章

1、2節)。主イエスこそ、「あの預言者」でした。そして主イエスが、「わたしたちの

救いに関する神の隠された熟慮とご意志とを余すところなくわたしたちに啓示し」てくだ

さったのです。こうして主イエスは、預言者としてキリスト・メシアなのです。


3.道であり、真理であり、命である方

ヨハネ福音書は、主イエスについて、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふと

ころにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と紹介します(1章18

節)。また主イエスご自身も、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通

らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているな

ら、わたしの父をも知ることになる。・・・わたしを見た者は、父を見たのだ」と語ら

れました(同14章6、7、9節)。このように、わたしたちは主イエス・キリストを通

してまことの神、主イエスの父なる神に至るのであり、その意味でもキリストはわたした

ちの信仰の中心です。わたしたちの神への信仰は、漠然としたものではなく、あくまでも

イエス・キリストの父なる神への信仰なのであって、この方を抜きにしたまことの神への

信仰は成り立たちません。キリスト者の中に、自分は天地の創造主、主権者なる神を信

じていることを強調される方がいます。「イエス様」などという甘ったるい信仰を自分は

持っていないことを言いたいのでしょう。十字架にかかられた「イエス様」などという、

感傷的なセンチメンタルな信仰ではなくて、主権者にして支配者なる全能の神への、壮大

で雄大な信仰を持っているのだと言いたいのです。しかしこの信仰理解には問題がありま

す。主イエスご自身が、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができな

い」と言われ、キリストを抜きにした神信仰は唯一神教ではありえても、キリスト教信仰

とはならないことを明らかにされました。天地を造られた、歴史の支配者なる神を信じ

る信仰は、同じ旧約聖書の伝統を共有するユダヤ教とも、(さらには誤解を恐れずに言え

ば)イスラム教とさえも共有します。だからキリスト教でも「天地の創造主なる全能の

神」を信じますが、それをイエス・キリストにおいて信じます。なぜならその方は「イエ

ス・キリストの父」なる神だからです。そこでイエス・キリストという狭い一本の道以外

の道からしか、まことの神を知ることはありません。そしてさらにはそのイエス・キリス

トが明らかにしてくださった神を、父なる神、まことの神として信じるだけではなくて、

そもそもこのイエス・キリストこそ、その唯一のまことの神ご自身だと信じるのです。そ

れがヨハネ福音書の最初で語られたことでした。神は、御自身の独り子イエス・キリスト

において、ご自分を啓示されました。ですからわたしたちは、キリスト以外のところでま

ことの神と出会うことはできないし、キリストを抜きにしては、わたしたちの父であるま

ことの神を知ることはできないのです。


 このことを、よく考えていただきたいのです。このことは、自分の信仰生活とは無関係

なことのように思われるかもしれませんが、実はまさにこのことこそ問題だったのです。

なぜわたしたちは、神への信仰が揺らぐのでしょうか。キリストを通して神を知ろうとし

ていないからです。キリスト以外のどこでそうするのでしょうか。自分の人生に起こり来

る様々な問題や出来事によってです。そこから神の愛や恵みを推し量るのです。そうする

と、神の摂理などというものが、どうしても信じられなくなるのです。神が万事をわたし

たちの益となるように計らってくださるなどという話は、ただの絵空事にしか聞こえない

のです。なぜでしょうか。キリスト以外の場所で神を知ろうとするからです。自分の人生

を見つめながら、そこで神が分からなくなり、神が理解できなくなるとき、わたしたち

は、この主の言葉を思い出すべきなのです。「わたしは道であり、真理であり、命であ

る。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。主イエス・キリス

トだけが、わたしたちをまことの神へと導いていくたった一本の道です。キリスト以外の

ところで、まことの神に出会うことも、信じることもできません。漠然とした神理解、神

信仰ではなく、キリストという一本道の上にいるのでなければ、まことのキリスト教信仰

とはいえません。漠然とした神ではなく聖書が啓示するまことの神、それはキリストご

自身です。そしてキリストにおいて神を知り、神に出会う、これがまことの神信仰なので

す。


4.命の道である主イエスの上を

 若いときに読んだ本に、こんな話が載せられていました。ある旅馴れた老人が一本の道

を急いでいました。激しい流れの川を命がけで渡り、険しい坂をあがり、断崖絶壁をは

うようにして進み、ようやく丘の上にたどり着いて一息ついていたとき、丘の上から見下

ろすと、一人の若者が四苦八苦しながら、同じ道をたどっている姿が目に留まりました。

老人は、この道をすでに何度も行き帰りしていたので、この先にどんな障害があるか、ど

んな困難があるか、どんな危険があるかを熟知していました。しかしこの未熟な若者は、

初めてこの道をたどるので、この先にどんな危険や困難があるかを知りません。今、ぶつ

かっている障害に精一杯で、その先の危険や問題まで心を向ける余裕も、力もないので

す。そうと知った老人は、せっかくたどった道をまた再び降りていきます。一歩まちがえ

ば谷底に落ちてしまう断崖絶壁を再び降り、険しい坂道を下り、そして、激しい流れが堤

にまであふれている川に降り下ると、再びその川を命がけで渡り始めます。そしてこの老

人は、何を始めたか、その川に橋をかけ始めたのです。それは大変骨の折れる、危険な仕

事でした。自分が川に流されてしまいそうになりながら、必死で橋をかけていく、そこを

通りかかった別の人が不思議に思って尋ねました。なぜそんな大儀なことをするのかと。

すると老人は答えるのでした。自分のずっと後から、この道を一度もたどったことがな

い、一人の若者が歩いている。もうじきこの川に着くだろうが、疲れ果て、弱り果て、力

も経験も乏しいその若者には、この川を渡るのは無理だと思う。きっと川の流れに足を

取られて流され、命を落としてしまうに違いない。だからその若者のために、わたしは橋

を作っているのだと。通りがかりの人はなおも言いました。それではあなたが死んでしま

うのではないか、自分が流れに足をとられて死ぬかもしれない、あるいは力尽きて、この

先の道を歩むのは無理ではないかと。老人は答えます。それでいいのだ、このわたしの命

と引き換えに、あの若者が自分の道をたどることができれば。そして老人は黙々と橋を作

り続けるのでした。


 「わたしは道であり、真理であり、命である」と、主が言われたのは、そういうこと

でした。人生という道を初めてたどる若者、それはわたしたちです。わたしたちは自分の

人生の道を最後まで一度も歩んだことがありませんから、これから先のことは自分の道

なのに知らない、この先どんな危険が待っているかも、どんな道をたどるかも知らないの

です。この若者を憐れんで、彼のために自分のこの先の道行きを断念し、せっせと橋を作

る老人、それはイエス・キリストです。主イエスは、わたしたちがこれからたどる道のす

べてを、すでに一度最後まで歩まれた方でした。死の先まで赴かれた方は、わたしたち

のこの先にある危険と問題と障害のすべてを熟知した方です。その方が、わたしにはとう

てい渡りきれない大きな川に橋をかけてくださった、それは死という大きな川です。たい

ていの人は、その川で足を取られて流されてしまう。だれも自分一人の力では渡りきるこ

とができない、とてつもなく深い淵、溝です。そこに主は、ご自分の命に代えて橋をかけ

てくださいました。命へと至る橋、命の源である神へと至る道をかけてくださり、そのた

めにご自分が犠牲になってくださった。だから主は「わたしは道であり、真理であり、命

である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたの

でした。その道とは、主イエスご自身です。わたしたちは、主がご自分の命にかけて作っ

てくださったこの「命の道」をたどって、自分の人生という道をたどることが許されてい

るのです。わたしたちは、自分の道を知らず、この先に何があるかを知りません。どんな

問題や苦労にあえぐかを知らない、しかしそこで忘れてはならないのは、確かに自分にお

いては知らない道でも、主はこの道のすべてを熟知しておられ、その道行きをずっと付き

添い、守ってくださるということです。それ以上に、その道がどんなに険しく、つらく、

大変な道であるとしても、それは主イエスの道であり、主ご自身の上を歩く道であるとい

うことです。自分ではその道が見えなくなります。つらくて耐えられないことがありま

す。しかしそれは主と離れた別の道をたどっているのではなくて、主ご自身の上を歩く主

の道であるということを忘れてはなりません。それはただ主が共にいてくださり、付き

添ってくださるというだけではない、実は今自分がたどっている道は、主が命をかけて開

いてくださった道であり、命を棄ててかけてくださった橋の上だということです。主の上

を、主の中をたどる道筋を、わたしたちは今、歩き続けています。だから「わたしは道で

あり、真理であり、命である」と主は言われるのです。そしてこの道は、わたしたちがそ

の先を行ったことがない、死の先まで通じている命の道であり、この橋は、死を乗り越

えて、罪を乗り越えて、命に至ることができる、命の道なのです。だから主は、「わたし

は道であり、真理であり、命である」と、約束してくださったのでした。この主が開いて

くださった、命の道を、これからもたどり続けていきましょう。


5.「キリストのもの」とされた生き方

 こうしてキリストが「油注がれた方」、つまり聖霊の注ぎを受けて神の特別な職務に就

かせられた方であり、それは「預言者、祭司、王」なる方であるということを考えていき

ました。そしてこの方の在り方に、わたしたちの生き方が規定され、それがわたしたちも

「キリスト者」であるということだと教理問答は語ります。ここではまず、なぜわたした

ちがそうするのか、その根拠から考えていきましょう。この教理問答の最初で、「生きる

にも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」との問いにおいて、「わたしがわた

し自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエ

ス・キリストのものであることです」と答える中で、その理由、根拠に、「この方はご自

分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを

解放してくださいました」ということがあげられました(問1)。だから、この方のもの

とされたわたしたちは、この方、すなわちご自分の命をかけてわたしたちを贖い出してく

ださった方をこそ、自分の主と仰いで生きていくのです。だから、「あなたはなぜこの方

を『我らの主』と呼ぶのですか」との問いに、「この方が、金や銀ではなくて御自身の

尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放し、また買い取ってくださ

り、わたしたちの体も魂もすべてをご自分のものとしてくださったからです」と答えてい

きます(問34)。こうして、わたしはもはやわたし自身のもの(所有)ではなくなりま

した。なぜならキリストが「ご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償

い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放して」くださったからでした。キリストが御自身

の尊い血によってわたしたちを贖ってくださったことにより、わたしたちは「キリストの

もの」とされたのです。わたしたちが「キリストのもの」であるとは、この方がわたしの

主人であり、わたしはこの方の僕であるということです。ですからわたしたちは、洗礼を

受けたとき、「キリストの僕としてふさわしく生きることを決心し、約束」したのでし

た。またそのことを、聖餐において繰り返し確認しているのです。


 わたしたちが「キリストの僕」として生きるとは、キリストを自分の「主」として、そ

の主の御心に従って生きるということです。主イエスに倣って生き、主イエスに服従して

生きるのです。わたしたちはイエスを「主」と呼びますが、それはこのイエスを「自分の

主」とすることで、ここでわたしたちは「自分の主人をもった」ということです。それは

「自分は自分の主人ではない」ということでもあります。キリストを主と告白しながら、

依然として自分を主として生き、自分の心の思いと願いのままに生きているなら、それは

キリスト者とは言えません。しかしこのようにキリストを自分の主として生きる生き方

は、二重の意味で困難です。この世にはわたしたちの主人であろうとするものがたくさん

あるからです。身も心さえも支配しようとする様々なものが、わたしたちを取り巻いてい

ます。それは政治の力であったり、会社であるかもしれません。やりがいのある仕事、愛

する家族、金銭、誘惑、社会的な地位や名誉を願う思いが生活の隅々にまであって、わた

したちの心を支配し縛りつけています。このようにわたしたちの周りには、偽りの主人が

あるのです。しかしさらに深刻なことは、わたしたちはしばしば自分自身の主人になろう

とするということです。自分で自分を押さえることができないまま、自分の心と思いのま

まに、勝手気ままに生きてしまいます。また、頼りにならない自分に頼って失敗し、様々

なことに振り回されてしまうのです。主イエスへの信仰、つまりイエスを主とする信仰と

は、これらの偽りの主(自分を含めた)に対して「否」をいうことなのです。こうして

「キリストの僕」として生きるとは、キリストを自分の「主」として、その主の御心に従

い、キリストの望まれるままにその「手足」となって生きるということです。そのために

は、まず主であるキリストの御心を知らなければなりません。そしてその御心に従うよう

に自分を主に献げなければなりません。さらにその御心に従って、「愛」の御業と隣人へ

の奉仕へと遣わされていかなければなりません。それはわたしたち一人一人が「小さなキ

リスト」とされるということでもあります。


6.「小さなキリスト」として

 それでは、わたしたちが「小さなキリスト」であるとは、どういうことを意味している

のでしょうか。それは、わたしたちの主キリストが、預言者、祭司、王であられるゆえ

に、わたしたちもキリストのものとして、預言者、祭司、王として生きることが求められ

ているということです。そしてわたしたちが預言者、祭司、王であるということは、キリ

ストがどのような預言者、祭司、王であられたかに規定されています。しかもそれはキリ

ストが預言者、祭司、王としてお一人であられたように、三つの職務はバラバラのもので

はなく一つのものです。しかもキリストはこの三つの職務において「救い主」としての働

きを果たされたように、わたしたちもこの三つの職務において神の救いの御業に参与する

者となるのです。いわばわたしたちは「小キリスト」として神の救いの御業を担う者とさ

れるのです。それはまず第一に、預言者であるということです。預言者とは、神の言葉を

代弁して人々に語り伝える働きをしました。ここでは預言者であるとは「この方の御名を

告白」することだとされます。その根拠となるキリストのあり方は、「わたしたちの救い

に関する神の隠された熟慮とご意志とを余すところなくわたしたちに啓示」することでし

た。つまり神の救いの御心を告げ知らせる働きです。神の救いの御心は、聖書に示されて

いるのですから、それは隣人に対して聖書を語る、聖書を通して神の御心を語る、つまり

伝道し、証しをすることです。また兄弟に対して聖書を語る、つまり交わりです。わたし

たちは預言者として、その信仰を告白し、兄弟と御言葉を分かちあいます。教会にあって

は、御言葉を兄弟へと携え、兄弟に伝える交わりを形成していく務めです。そうして交わ

りが、神の言葉を共有し、それを「分かちあう」(それが交わりの元の意味)ものとして

いきます。そのために各会(男子会、婦人会、青年会、学生会、契約の子会など)が教会

で持たれます。それらの会の中心は、その交わりが互いに御言葉を携え、分かちあい、そ

れによって互いに成長しあっていくことにあります。


 またわたしたちは主にある交わりを聖餐として、つまり唯一の生命のパンであるキリス

トを食することによって表わします。一つのパンを分かちあうことによって、わたしたち

の交わりの中心にあるのはキリスト御自身であることを示すのですが、それは具体的には

生命のパンでありロゴスであるキリスト御自身を分かちあう、つまり神の言葉を分かちあ

うことです。神の言葉を共に食することこそ、わたしたちの交わりです。キリスト者の交

わりとは、御言葉を共有し、御言葉を語りあうことにおいて成り立つのです。またこの世

に対しても神の言葉を語り、預言者的務めを果たします。告白、信仰の証しです。時には

時代に逆行して、世に警鐘を鳴らさねばならないこともあります。そうして世が神の御心

に沿うように、神の言葉を語るのです。ところでわたしたちは、どこで最も有効に神の言

葉を語るのでしょうか。それは礼拝です。神の言葉は正しく語られ、また聞かれている場

である礼拝においてこそ、わたしたちは大胆に神の言葉を告白し、交わり、伝道している

のです。また礼拝においてこそ、わたしたちの語るべき神の言葉を供給、補給されて、礼

拝からこそ、この世へと、隣人へと、兄弟へと遣わされていくのです。