第19課 罪の赦しと義とされる恵み

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの生涯


第19課:罪の赦しと義とされる恵み(使徒13 章38~41 節、2011 年7月3日)


《今週のメッセージ:罪の赦しと義認の恵み(ローマ4章2 4、2 5 節)》

パウロは、主イエスによる「罪の赦し」と「この方によって義とされる」ことを宣言しました。主イエスの十字架と復活による「罪の赦し」と信仰によって「義とされる」ことこそ、歴史を通じて神が起こし続けてきてくださった救いの御業の中心でした。「罪の赦し」は主イエスの十字架による贖いによってもたらされ、「義とされる」ことは、主イエスが罪の裁きとしての死を打ち破って復活されたことによって確証されました。そしてこのことにあずからせるのが、主の日ごとの礼拝です。地上にある限りは、なお罪の残滓に苦しみ、罪に抵抗しながら罪と戦い続けるわたしたちです。それでも罪と弱さと失敗から免れられないわたしたちだからこそ、毎週ここに集い、自分の罪が主イエスの十字架によって贖われたこと、そして復活によって罪の赦しが確証されていることを確信して、それぞれの働きへと戻されていくのです。そのために礼拝では、罪の赦しの宣言がなされると共に、確かにわたしたちの罪が赦され、義とされているという福音が説教されます。そしてそのことの目に見えるしるしとしての聖餐が祝われることで、主イエスの贖いによる罪の赦しと義認とを確証されながら、それぞれの持ち場へと遣わされていくのです。


1.罪の赦しを与えるための呪いの木

 「まじわり」という機関誌から、東日本大震災についてどのように考えるか、280 字以内で書いてほしいという依頼を受けて、記事を書きました。わたしを含めて6人の教師が執筆したわけですが、その内容は各人各様で、同じ教師であってもそれぞれに違う受け止め方をしていることが分かります。被害に遭われて今も困難な生活を強いられている方々への配慮が必要ですが、わたし自身は、これは神からの問いかけであり、わたしたち一人一人がこのことによってそれぞれの生活や生き方を問い直される出来事だったのではないかという趣旨の記事を書きました。「神を信じると言いながら、本当の意味で神に寄り頼み、神に信頼して生きてきたのではなく、実は文明や人間の力に頼って生きていたのではないかということを問い直されるものだったと考えさせられています」と。これはあくまでも自分自身への問いとして受けとめたことです。しかしそのことは、何も今回のような大災害だけではないかもしれません。わたしたちは日々に起り来る様々な出来事によって、いつも自分の生き方や生活を問い直されているのではないでしょうか。そしてそれによって自分の信仰が、結局何を土台として築かれているのか、何を拠り所として信仰を建て上げ、生活を成り立たせているかを問いかけられていくのではないかと思います。


 開かれたテキストは、ピシディアのアンティオキアの会堂での安息日礼拝で、パウロが話したことの続きです。長い説教ですが、終わりの38、39節に全体の結論が語られていきます。この説教においてパウロは、要約すると三つのポイントで福音を語っていきます。第一のポイントは、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださいました」(23節)で、これまでのイスラエルの歴史を要約し、それがイエス・キリストの到来を待ち望む歴史であったことを明らかにします。イスラエルとは、神がわたしたち人類を救うために選ばれた手段で、神はイスラエルによってすべての人々を救うことを意図して人間の歴史を導いてこられました。ですからイスラエルの歴史とは、神の救いの歴史のことで、その中心は「救い主イエス」だということでした。そこでパウロは「この救いの言葉はわたしたちに送られました」と宣言し(26節)、そこで語る結論は、「だから、兄弟たち知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、信じる者は皆、この方によって義とされる」ということでした(38、39節)。つまり「救い主イエス」による「罪の赦し」こそ、神がわたしたちに約束してくださり、歴史を通じて神が起こし続けてきてくださった救いの御業の中心だということでした。「救いの言葉」とは、言葉(ロゴス)なるキリストご自身による罪からの救いと罪の赦しであり、その宣言の約束でした。そしてそのために神より遣わされた方こそ、「救い主イエス」なのでした。それが第三のポイントです。そして、それではこの救い主イエスによる救い、罪の赦しはどのようにしてもたらされたかというのが第二のポイントで、それは一言で言うと主イエスの十字架と復活、十字架の死による罪の贖いと、復活によるその確証ということでした。人々は「イエスを罪に定め」て、十字架にかけて殺してしまいました。しかし主イエスはそれで終わりませんでした。「神はイエスを死者の中から復活させてくださった」からです。イスラエルの歴史と旧新約聖書のすべての教え、それに基づくキリスト教信仰のすべては、このイエス・キリストの「十字架と復活」にかかっています。キリスト教信仰とは、イエス・キリストが十字架にかかって死に、復活されたこと、それは他でもない、わたしのためであることを信じるかどうかです。イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかって死に、復活してくださった、そのことを信じるかどうかが、キリスト教信仰なのです。


 そしてそれは、パウロが勝手に創作したものではなくて、パウロ自身も受けたもの、伝えられたものでした。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。・・・最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(1コリント15章1~5節)。その要点は「十字架と復活」であり、それはペトロも同じでした(使徒言行録2、3、5、10章の説教)。そしてわたしたちの信仰は、本当にこの主イエスの十字架と復活の上に築かれているか、それをこそ真実な拠り所としているかどうかが、問われてくるのです。


 パウロは、イエス・キリストが十字架にかかって殺された事実を語った後、「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」と続けました。ここで「イエスについて書かれている」と言われたことは、旧約聖書において預言されていたことだからで、それは主イエスが「木」にかけられるということでした。ここでは主イエスがかけられたものを「十字架」と言わずに、わざわざ「木」と呼びます。それが旧約の預言だからです。主イエスがかけられた「木」、それは神の呪いの木、罪の裁きの木だからでした。主イエスが十字架にかかって殺され、十字架によって死なれたことは、偶然の出来事ではなく、また志半ばにして挫折し、運悪く邪悪な人々の手にかかって殺されてしまったという不慮の出来事でもなく、あらかじめ預言されてきたことなのでした。神が、人間の不信仰と反逆にもかかわらず、着実に遂行してきた救いの計画とは、神の御子が十字架にかかって殺され、そこで死ぬということでした。そこでパウロはここでわざわざ、この主イエスが罪がなかったにもかかわらず、死刑にされたと語るのです。罪のない方が代わりに死の刑罰を受けた、それが十字架、神の呪いの木だと言っているのです。なぜ「木」なのでしょうか。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3章13 節)。キリストの十字架、それは神の呪いと裁きでした。神に背き、罪を犯したわたしたちの罪と背きの一切が、そこで裁かれ、罪に対する神の怒りと呪いが徹底的に注がれた場所、罪に対する刑罰の場、そ

れが十字架なのでした。そして罪のない神の独り子が、わたしたちの罪のすべてを肩代わりして、身代わりとなってわたしたちの罪に対する刑罰、神の怒りと呪いとをその身に一身に引き受けて、代わりに罰を受けてくださったのです。


 十字架上での主イエスの言葉、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、神の怒りと呪いを一身に受けていく中でもれた主の言葉でした。そこで父なる神は裁き主として、人間の罪を徹底的に裁き、その一点も見逃さないほどに罪の裁きを主イエスにくだされたのでした。主イエスが死んだのは、罪の結果としての死をも引き受けられたからでした。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6章23 節)。死は、必然的にもたらされる自然なことではなくて、人間が罪を犯した結果もたらされたものでした。死とは罪に対する刑罰です。そして主イエスが十字架で死なれたのは、わたしたちの罪のすべてを、そしてその刑罰を、その結果としての死に至るまで一切を背負い、ご自身に引き受けて、身代わりとなってくださったということでした。罪のない主イエスが十字架の上で死なれた、それによってわたしたちの罪に対する刑罰とその結果である死とは、全く取り除かれたのでした。こうして十字架は、わたしたちの罪に対する神の裁きと呪いを取り除く「命の木」となりました。それはわたしたち人間が、「善悪の知識の木」における不従順によって、罪を犯し、堕落して、神に呪われる者となってしまったことをくつがえし、その呪いを取り除いて、命に生きる者

へと招き入れる木となったのでした。神ご自身が「呪いの木」にかけられることによって、それをわたしたちのための「命の木」としてくださったのです(讃美歌137 番2節、140番2節参照)。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(1ペトロ2章24 節、ヘブライ9章26~28 節)。


2.罪の赦しを確証するしるしとしての「復活」

 こうして主イエスの十字架によって、わたしたちの罪は取り除かれました。罪に対する刑罰も、その結果である死も終わりました。しかしそれが本当にそうなのかどうかがわたしたちの心配するところです。罪の赦しは、その確証を得るまでは心安らかなものとなりません。そして復活こそが、まさにその罪の赦し、罪の贖いが完全に成就したことの確証でした。死とは、罪に対する刑罰です。キリストがその死を打ち破られたのは、罪の刑罰である死が打ち砕かれたからです。キリストは罪の獄屋、死の牢獄に閉じ込められたままではなく、それを打ち破って出て来られた、それによって罪の刑罰としての死そのものが打ち砕かれたことを確証したのです。キリストがわたしたちのために十字架で死んでくださったとしても、死んだままであったら、わたしたちの罪は依然として赦されず、解決していないのです。罪の刑罰としての死が依然として力を発揮したまま、わたしたちを支配していることになるからです。しかし神はキリストを死者の中から復活させてくださいました。それによって、罪に対する刑罰そのものが完全に終了したことを意味しています。もし「キリストが復活しなかったなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。・・・しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・・つまりアダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(1コリント15 章17、20、22 節)。こうしてキリストの十字架と復活によって、「最後の敵として、死が滅ぼされ」たのでした(同26 節)。十字架は復活なしには意味をなしません。キ

リストがわたしたちの身代わりとして、犠牲となって死んでくださったとしても、復活がなかったなら、それは崇高ではあって単なる無駄死にだからです。復活がなかったら、罪は何一つ解決されず、わたしたちは依然として罪の中に留められ、罪の中に生きているのです。しかし主は死を打ち破って、復活してくださいました。それは、わたしたちをがんじがらめに縛りつけている罪と死が打ち砕かれ、その支配からわたしたちは自由にされたことを意味します。キリストが復活されたということは、神がわたしたちに対して、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださったということです。罪の刑罰としての死が、復活によって取り除けられたからです。わたしたちの身代わりとして、罪人として死なれた主イエスを、神は十字架で打ち砕かれ、裁かれましたが、復活させることで、その罪の裁きが完全に終了したことを明らかにしてくださいました。復活は、罪に対する裁きが完全に終了し、完了したことを意味し、今や神はわたしたちに対して、裁きではなくて愛顧のまなざしを送ってくださるようになったのでした。


3.「律法による義」ではなく「信仰による義」

 しかもこの「救いの言葉」は、それにとどまりません。犯した罪の償いが完了して、晴れて釈放されるというばかりではなく、そこで果たすべきだった義務、満たすべきだった責任をも完全に果した、そのことによってそこで受けられる報酬をもいただく者とされたというのです。「信じる者は皆、この方によって義とされる」(39 節)、信仰による義をもいただくものとされたのでした。「信仰義認」、それが次の主題です。ここでは「信じる者は皆、この方によって義とされる」とあるように、それは信仰によって得られると約束されます。それは、信仰ではないものと対比して言われていることでした。わたしたちが義とされる、義人、人から後ろ指を指されることがない立派で潔癖な人間、義なる神の前でも立ちおおせる人間となるのは、どのようにしてかというのが、ここでの問題です。ユダヤ人は、それは律法によってだと考えてきました。「律法による義」、それは自分が善い行いをすることによって義を獲得しようとする「行いによる義」、つまり「行為義認」であり、自分で自分を義とする「自己義認」でした。功徳を積み、善行を積み上げることで自分を義とする、あるいは自己修練を重ねることで自分を義人としていくことです。


 キリストに出会う前のサウロも、それを一生懸命に追い求めてきました。しかもそれを人一倍熱心に追求してきたのです。パウロはかつての自分を振り返って、自分が「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしてい」たことを証言します(ガラテヤ1章14 節)。その頃のパウロが求めていたのは、「律法による義」でした。そして彼は、自分が「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」だと胸を張って自己主張することができるほど、この「律法による義」に精進し、精通する者となっていました。ところが、主イエスと出会い、目が開かれたパウロは、それがいかに愚かで無意味な道であるかを知り、こう言うようになりました。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰の義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(フィリピ3章7~9節)と。ここでパウロが主張する義とは、「律法から生じる自分の義」ではなくて、「信仰に基づいて神から与えられる義」なのです。自分が一生懸命に苦行、修練、努力をすることで獲得する義ではなくて、自分の力や努力によって得られる義ではなく、神から恵みによって与えられる義です。しかもそれは、破れだらけの不完全な自分の義ではなく、キリストが十字架によって果たしてくださった完全な義なのです。このキリストの完全な義を、ただ神の一方的な恵みと憐れみのゆえに、信仰によっていただく、それが「信仰による義」です。


4.神の前に破産した者の救い

 なぜ「律法による義」ではいけないのでしょうか。それはわたしたちが、聖なる神の前には、まったく罪に満ち、汚れた、無力な者だからです。わたしたちは神の前で、破産した者たちです。罪という、とてつもない負債を抱えて、一生かかってもとうてい払いきれない借金を背負っている存在だからです。とても、自分で善い行いして功徳を積むなどということはできない、それほど破れに満ちた者なのです。パウロもかつては自分がそこそこの人間だと自負し、自分より低い者を見下し、自分への誇りに満ちて生きていました。しかし義なるキリストに出会ったとき、まったく目が開かれたのです。聖なる神の前には、自分がどれほど惨めで哀れで、ぶざまな者でしかないかという、ありのままの自分の姿を知ったのです。すると、自分は誰よりも義に秀でた義人であるという愚かな誇りは、まったく費え去り、どうしたらまことの神の義を得ることができるかを真剣に求めるようになったのです。そこで知ったのが「信仰による義」でした。「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」です。それが、「信じる者は皆、この方によって義とされる」ということなのでした。だからパウロは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2章16 節)と語るのでした。


 わたしたちは、義なる神の前に自分の義を主張することなどできない、破産者です。罪というとてつもない負債、払いきれない借金を神の前に負い、その罪の結果としての悲惨と死の中に生きているのです。しかし神は、そのわたしたちの負債のすべてを、ご自身が肩代わりして、弁済してくださると申し出てくださいました。そこで神が支払ったわたしたちの弁済金、肩代わりした負債の代償とは、ご自身の独り子だったのです。神は、ご自分の御子を身代わりとして、その命と引き換えにわたしたちの命を取り戻してくださったのでした。そしてこの御子の贖いによって、わたしたちの負債のすべてはもう完済し、一切は終了したのでした。神の御子は、わたしたちの破れに満ちた人生のすべての罪と失敗とを肩代わりするために、人間となっておいでくださいました。赤子として生まれ、子供時代を過ごし、青年期を経て壮年となり、最後に死に至る、わたしたちの人生のすべてをたどることによって、わたしたちの罪の人生、失敗と破れに満ちた人生のすべてを「やり直し」をしてくださったのでした。取り返すことができない罪と失敗のすべてを、全部この方がやり直すことで、帳消しにしてくださったのです。そして最後にご自分の命をささげてくださったのでした。これによって、わたしたちの負債は完済し終えたのです。もう負債は一銭もありません。そればかりか、十分に義を獲得してくださった報酬・ボーナスをいただく者となったのです。それが永遠の命でした。律法による自分の義によってはとうてい払い切ることが出来なかった罪という負債のすべては、神がキリストによって全部を肩代わりし弁済してくださったのです。そのことを信じて、この恵みを受け取るのが、「信仰」なのです。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自身が正しい方であること明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」(ローマ3章21~26 節)。わたしたちは、この神の約束を信じて、ただ受け取るだけなのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ2章8節)。こうしてパウロは、イエス・キリストの十字架と復活により、わたしたちに「罪の赦し」が与えられると共に、それを「信じる者は皆、この方によって義とされる」ことを力強く説教しました。それはわたしたちが、「信仰による義」をいただくものとされたということで、「律法による義」つまり自分の善い行いや功徳、修行や功績を積み上げることで、自分の力と努力によって救いを獲得しなければならないということではなくて、ただ神の恵みによって、信仰のゆえに救われるということなのでした。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4章24、25節)。


5.人生を揺さぶる大きな出来事の中で

 こうして今たどってきた福音は、わたしたちがいつも聞き、学び、知っている事柄です。正直言えばうんざりするほど分かりきった、退屈なものとなっていることかもしれません。「罪の赦し」と「信仰義認」、それはもう何度も聞いてきた、今さら聞くまでもないほど分かりきった話かもしれません。しかしだからこそ、最初に大震災のことを話したのです。わたしたちは、自分の信仰が何を土台としているか。自分の生活が何を拠り所としているか、このような出来事によってあらわにされていきます。それは日々に起り来る家庭の問題や家族のことにおいてもそうかもしれません。そうした出来事によってわたしたちの心は乱され、慌てふためき、落ち着きを失い、右往左往します。そうして自分の信仰というものが、実のところどこに根ざしているかがあらわにされていくことになります。大切な家族を失い、仕事を失い、家や財産を失い、生きがいを失う、そうした大きな出来事によって、わたしたちの人生はふるいにかけられ、飾りがすべて剥ぎ取られることで、あらわな姿を見せることになります。そして本当は、自分は何を拠り所として生きてきたのか、何を信仰の土台に据えてきたのかが、改めて問い直されていくのです。家族や仕事や家を失うといった、大きな出来事を通して、実は自分がそうしたものに依存し、それを拠り所として生きていたのにすぎなかったということが明らかにされていくのではないでしょうか。そしてむしろそうしたものの一つ一つを奪い取られ、剥ぎ取られていくことによって、本当に自分が頼らなければならなかったものとは何かが、明確にされていくのです。主イエスの十字架によって罪を赦され、神の前に義とされること、これ以外のところにわたしたちの信仰の真実な土台はありません。自分の目を幻惑させ、まことの信仰から引き離している、様々な地上のものを剥ぎ取られ、奪い去られていく中で、本当に自分が拠り所としなければならないものとは何かが見せられていきます。それがここで約束されている「罪の赦し」と「義とされる」ことなのです。大きな問題に直面して、そうしたものを失わない限りは、本当にこのことこそが、わたしが自分の信仰を拠って立たせていくただ一つの土台であることに、目が開かれていかないのです。


 色々な事情があって、ここ最近カテキズムの学びをしています。主にハイデルベルク教理問答について学んでいて、今回の準備においても改めて、ここで語られていることの素晴らしさに目が開かされていきました。有名な問1をご存知でしょう。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。云々」と答えます。この教理問答は「ただ一つの慰め」が中心主題となっています。この有名な最初の問いと答は、全体の構成が大まかに決まった後でつけられたと考えられています。その時代は、改革派は異端として、カトリックからだけではなく同じプロテスタントであるルター派からも厳しい弾圧を受けていました。各地で改革派信徒が、その信仰のゆえに弾圧を受け、職を失い、土地を追われ、家族と離散してさ迷い歩くことを強いられた時代でした。拷問を受け、情け容赦なく虐殺されていた時代で、そうした厳しい現実の中でこの問答は書かれました。だからその中心を貫くべき主題について、この問答の著者が考えたのが、「生きるにも、死ぬにも、ただ一つの慰めは何か」ということだったのでした。


 地上のものに幻惑されている間は、「わたしはわたしのものではない」などとは思えません。これも自分のもの、あれも自分のものと、すべてをかき集めて「自分のもの」にしながら生きていて、だからそれを失ったときにうろたえ、落胆し、生きる希望まで失ってしまうのです。大切な家族を失う、そのことによってわたしたちは悲嘆に暮れます。仕事を失う、それによってわたしたちは生きる意欲まで失います。家や財産を失う、そのことでわたしたちは生きていく希望をなくします。しかしそれはそもそも主のものであり、主が与え、主が取られるものでした。わたしたちは自分自身さえ主のものです。そのことをわきまえられるようなったとき、わたしたちは初めてそうしたものへの執着から解放され、心が自由にされていきます。そうしたものによって苦しんだり、振り回されることはなくなります。わたしたちはなぜ苦しむのでしょうか、それはそうしたものに心が奪われ、それらの虜、奴隷となってしまっているからです。しかしそれらはすべて、本来は主のものであり、主が与え、主が取られるものです。ところがそうしたものに執着し、心をがんじがらめに縛られて生きているから、苦しくなるのです。しかしそれらを奪い取られ、失うことで、かえって自由にされます。そして自分が本当に見なければならないものが何であるかということへと、目を向けさせられていきます。この地上にあって、わたしたちが本当に獲得するために奔走しなければならないことは、「罪の赦し」と「義とされる」ことです。これだけが永遠の命に至らせる唯一のものだからです。それ以外のすべては、第二義的なものにすぎません。あなたは自分の信仰の土台を、どこに据えているでしょうか。何を拠り所として、自分の人生を築いているのでしょうか。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」。このことだけが、わたしたちが据えるべき人生の唯一の土台であり、獲得するべき唯一のものではないでしょうか。とてつもなく大きな問題に押し流され、大切なすべてを失うとしても、そこでなお自分をしっかりと立たせていく、確かな「慰め」を持っているでしょうか。そうして苦しみながら生きているときも、また死を目の前にしても、そこで自分を揺るぎなく立たせていく、しっかりとした「慰め」を持っているでしょうか。わたしたちは、何を本当に自分の慰めとしなければならないのでしょうか。


 地上にある限りは、なお罪の残滓に苦しみ、罪の抵抗にあいながら罪と戦い続けるわたしたちです。そしてそこで罪と弱さと失敗から免れられないわたしたちだからこそ、毎週ここに集い、それでもなお自分の罪が主イエスの十字架によって贖われたこと、そして復活によって罪の赦しが確証されていることを確信して、またそれぞれの働きへと戻っていくのです。この礼拝で、わたしたちは今日も罪の赦しの宣言をいただきました。そして確かにわたしたちの罪が赦され、義とされているという福音が説教されました。そしてこれから、それの目に見えるしるしとしての聖餐が祝われて、主イエスの贖いによる罪の赦しと義認とが確かにされていることを味わいながら、それぞれの持ち場へと遣わされていきます。この「罪の赦し」と「義とされる」という、主イエスの福音こそ「ただ一つの慰め」なのです。