第6課 十字架につけられたメシア

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第6課:十字架につけられたメシア(使徒言行録 26 章9~18 節、2011 年2月6日)


《今週のメッセージ:身代わりとなって死んだメシアへの信仰(ローマ5章8節)》

 ダマスコへの道を急いでいたサウロは、復活の主イエスと出会い、まったく変えられて しまいます。聖なる神の御子の栄光に輝く姿を前にしたとき、おごり高ぶり、自信と誇り で膨れ上がっていた心は打ちのめされ、義を誇っていた自分がどれほど無様で、惨めで、 哀れで、愚かなものであったかを思い知らされます。そして目が開かれたことで、「十字架 につけられたイエス」こそ、メシア(キリスト)であったことを知ったのでした。木につ けられた者は呪われた者であり、神の裁きと罰を受けて棄てられた者、だから十字架で処 刑されたイエスは、神から呪われ、裁かれ、棄てられ、断罪された犯罪人でした。しかし それは「わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくだ さ」るためだということを知ったのです。「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のた め」であり、「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」、それが呪いの木につ けられたイエスであり、彼こそまさしくメシア(キリスト)だということを、サウロは知 るに至ります。この日を境にしてサウロは、「十字架につけられたキリスト」を自分の主 として崇め、この「十字架につけられたキリスト」を語る伝道者となっていったのでした。


1.ダマスコへと急ぐ迫害者

 前回は、「教会の迫害者」として鬼のような形相をしながらキリスト者を追い回し、教会 を徹底的に迫害していたサウロの姿を見ました。そのサウロが、ダマスコの途上で復活の 主と出会い、180度変えられていく出来事を考えたいと思います。これは彼の人生を二分 する大きな出来事であるだけではなくて、これによって世界の歴史をも変えてしまった大 きな事件でもありました。「教会の迫害者」が「キリストの使徒・宣教者」に変えられたこ とで、これまでユダヤ教の中の一分派(ナザレ派)にすぎなかった主イエスの弟子たちが、 明確にユダヤ教から分離してキリスト教として自立していくことになるからです。そして この出来事は、この日を境として今度はキリストの宣教者として働くことになる使徒パウ ロの神学を基礎づけるものとなるほど重要な事柄ですので、二回に分けて考えたいと思い ます。今回はまず、ここで何が起きたかを確認しましょう。ここでパウロは、かつての自 分を振り返りながら「実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと 考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限 を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強 制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。こう して、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かった」と語ります(使徒26 章9~12節)。


 ここでパウロは、自分が「祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かった」と しますが、それはどのような権限だったのでしょうか。22章4、5節ではこのように語り ます。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたの です。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。 実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たち を縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」ダマスコに 逃げたキリスト者たちを処罰するために、縛り上げてエルサレムまで連行する権限を委任 されたのでした。9章1、2節でも同じことが語られます。「さて、サウロはなおも主の 弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あて の手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エ ルサレムに連行するためであった。」前回は、ステファノの殉教を契機にエルサレムで大 迫害が起り、キリスト者たちがエルサレムを追われて、散り散りばらばらになったことを 見ましたが、その先頭を切っていたのがサウルでした(8章1、3節)。散って行ったと いっても、親戚とか友人など頼るつてがなければ、行きようがありませんから、そういう つてを頼って、まったくばらばらになってしまったというよりも、まとまって出ていった ことでしょう。ダマスコにはすでにアナニアに代表されるようにキリスト者のグループが あったため、それを頼って逃げて行ったキリスト者たちがいて、それなりの大きな集まり となっていたようでした。そこでサウロはそれを叩き潰そうとして、ダマスコに向かって 行ったのでした。そしてそこで、サウロの人生を大きく変えてしまう出来事が起るのです。


2.ダマスコ途上で起きたこと

そこで起きた「サウロの回心」と言われる出来事については、使徒言行録の中で三回繰 り返されていますし、またパウロ自身も手紙の中でわずかながら触れていて、そこにはい くつかの共通点があります。それは天からの光がサウロを襲い、彼を打ち倒したというこ とでした。それは真昼に起きたことであったにもかかわらず、ギラギラと照り輝く太陽よ りも明るく強い輝きでした。その天からの光こそ主イエスであり、サウロはそこで復活の 主と出会うことになります。そしてあまりの衝撃のため目が見えなくなり、このことによ ってサウロがまったく変わってしまったのでした。サウロは復活の主イエスと出会ったこ とで、「教会の迫害者」から一転してそれと正反対の「キリストの使徒・福音の宣教者」に 変えられてしまうのです。パウロ自身、自分は「主イエスを見た」こと(1コリント9章1節、ガラテヤ1章 15 節)、それは復活された主イエスであったことを証言します(同 15 章8節)。何がそこで起きたのか、何がサウロをそのように変えてしまったのか、ここでは そのことを考えていきましょう。言うまでもなく、このサウロの変化は、復活の主イエス との出会いによって起ったことでした。それまでのサウロは、自分について悶々と悩んで いたとか、実は迫害することを後ろめたく思っていたなどということは微塵もありません。 律法を守り行おうとしたけれど、なかなか守りきれずに苦しんでいたとか、ファリサイ派 の教えに疑問を感じ始めていたなどということがまったくないのです。彼には自分が変わ りたいなどという願いや思いは少しもありませんでした。ですからこの変化は、彼がまっ たく予期しない中で突然起きた出来事であり、彼が求めたから起きたことではなくて、主 イエスがまったく一方的に彼を捉え、組み伏して、彼を変えてしまった出来事なのでした。


 外見的には、突然「天からの光」が彼を撃ったことでした。それは太陽よりも明るく輝 く「強い光」で、そのため彼は「地に倒れた」といいます。そしてその光により、彼の目 は見えなくなります。わたしたちも太陽を見ると目がくらみ、周りが一瞬見えなくなりま す。サウロにはそれがただ身体的な目だけではなくて、心の目においても起ったのでした。 主イエスに出会う前のサウロは、律法の熱心さにおいては誰よりも抜きん出ているという 自負心を持ち、それを忠実に守り行える自分を誇り、自分の義に十分なほどの自信を持っ ていました。義なる神の前にさえ胸を張って立つことができると、自分に強い自信を持ち、 律法に対しては人一倍熱心だとおごり高ぶっていました。この誇り高き人間が、しかし神 の栄光に輝く復活の主イエスに出会い、その聖さとまことの義を見たとき、はじめて自分 の本当の姿を見せられます。強い光に照らされると、かえって暗部が浮き彫りになります。 人間の義というぼんやりした光では、明るく輝いていると見えた自分の義も、神の義とい う強烈な光に照らされたとき、それはただの闇にすぎなかったことが際立たせられたので した。13 世紀の神学者でトマス・アクィナスという人がいます。彼は「神学大全」という 有名な著作を著した高名な神学者でした。しかしこの著作は未完に終わります。あともう 少しで完成というところで、死んでしまったというのなら理解できるのですが、そうでは なくて彼は、もうこれ以上書けないと言って、途中で筆を折ってしまったのでした。弟子 たちをはじめ多くの人が、トマスに最後まで書いてほしいと懇願しますが、トマスは頑と して応じません。そのため未完に終わってしまったのです。どうしてトマスは書くことを やめてしまったのか、こんなエピソードが残されています。ある日の朝トマスがミサをし ていたときのことでした。トマスはそこで不思議な体験をしたようで、熱心に仕事をして いたのに、その日を境にしてぼんやりとすることが多くなり、これまで続けていた著述を、 一切やめてしまいます。同僚や弟子が著作を続けるように勧め、懇願しますが、まったく やめてしまいます。どうしてかという問いに、トマスは「わたしにはできない」と答える ばかりでした。訳が分からないので、同僚の一人がしつこく尋ねると、秘密にすることを理由に、こう答えたそうです。「わたしが見、わたしに啓示された事柄にくらべるとわたし が書いたことはすべてわたしには藁くずのように見えるのだ」と。それからしばらくして トマスは重い病気になり死んでしまいますので、そこでトマスが何を見、どのような啓示 を受けたかは分かりません。けれどもおそらくミサの最中に見たのは、復活の主イエスで はないかと考えられています。神の栄光に輝く義なるキリスト、その姿を目の当たりにし たとき、この方の真理を説き明かすために書いてきた自分の書物、つまり『神学大全』の ことですが、それはただの藁くずにすぎない、この栄光に輝くお方を書き表すことなど自 分にはとうていできないと考えたのでした。そしてその日を境にして、トマスは一切何も 書かなくなった、いや書けなくなってしまったということでした(稲垣良典、『トマス=ア クィナス』、清水書院、189 頁以下;同、『トマス=アクィナス』人類の知的遺産 20 巻、 講談社、200 頁以下参照)。


3.ユダヤ人の躓きとしての「十字架につけられたメシア」

 サウロに起きたことは、ある意味でそれに似ているということができるかもしれません。 神の栄光に輝く復活の主イエスと出会ったとき、おごり高ぶり、自信と誇りで膨れ上がっ ていた自分の心が打ちのめされたのでした。聖なる神の御子の栄光に輝く姿を前にしたと き、義を誇っていた自分がどれほど無様で、惨めで、哀れで、愚かなものであったかを思 い知らされました。その栄光に輝く神御自身から問われたのです。「なぜわたしを迫害する のか」と。そこでサウロははじめて知りました。自分は神に熱心で忠実に生きてきたつも りでいた。そしてその証しとして教会を迫害してきた。けれどもそれは実は神の御心に反 し、神に逆らうことだったのだと、実は自分こそ「神の敵」だったのだと。そしてそこで 目を開かれたことで、はじめて気づいたことがありました。これまで自分が敵対してきた、 十字架につけられたイエスこそ、メシアすなわちキリストであったということでした。こ れはサウロにとって大きな理解の変化となりました。というのは、これまでどうしてキリ スト者を憎み、迫害してきたかというと、彼らがよりにもよって十字架につけられて処刑 された犯罪人を、イスラエルが待望し続けてきたメシア=キリストだと主張したからでし た。それはサウロのみならず、ユダヤ人共通の躓きであり、それがために彼らは激しく怒 ってキリスト者を憎み、激しい迫害を加えていったのです。律法の規定で、木につけられ た者は神から呪われた者であり、神の裁きと罰を受けて棄てられた者でした。ですから、 ゴルゴダの丘で十字架によって処刑されたイエスは、神から呪われ、裁かれ、棄てられた 憎むべき背教者であり、民を惑わした偽預言者であったがゆえに断罪された犯罪人に他な りませんでした。その憎むべき犯罪人をメシア、すなわちキリストとするとは、とんでも ない神冒瀆でした。だからサウロをはじめユダヤ人たちは、キリスト者を迫害したのです。 その根本理由は、呪いの木につけられて神から断罪され、棄てられた犯罪人を、メシアと 主張したことでした。


 サウロをはじめとするユダヤ人が期待したメシアつまりキリストとは、ダニエル書7章 で預言されているように、光輝く天の雲に乗って登場し、神の栄光の輝きと権威の中で、 攻め寄せる敵を蹴散らして、絶対的な支配を樹立する「栄光のメシア」でした。ところが 敵を蹴散らすどころではない、むしろ敵を愛することを教え、「神の国」はこの世の国では ないなどと言って、イスラエルの希望を裏切った偽預言者だったから、ナザレのイエスは 処刑されたのです。しかも呪いの木につけられることで、神の呪いと裁きによって断罪さ れ、神から棄てられたことがはっきりと表わされた犯罪人でした。この十字架につけられ たイエスをメシアとするなど、もってのほかで、神冒瀆もはなはだしいことでした。彼ら は憎むべき異端として絶滅されるべきだと考えたからこそ、サウロは熱心に迫害していっ たのでした。ところがそのイエスに対する理解が根本から変えられたのです。たしかにイ エスは呪いの木にかけられ、神から呪われ、裁かれ、断罪されて、棄てられました。その 証拠が、彼が十字架の上で絶叫した叫びでした。エリ・エリ・レマ・サバクタニ、「わが神、 わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)。そこで確かにイエ スは、神から呪われ、裁かれ、断罪されました。そのようにイエスが絶叫せざるをえない ほど、神からの呪いと裁きは激しく厳しいものでした。しかしその神から断罪されたはず のイエスが、今や復活して神の右におられ、その栄光に輝く姿を目の当たりにしたとき、 この方に対する理解がまったく変えられていきました。十字架で死んだ方が今、目の前に いるとは、復活されたからでした。どうして復活したかと言えば、神が復活させたからで した。そうして神の右におられるということは、この方が神に受け入れられたことを意味 します。するとあの神の裁きはなんだったのか、それは他でもない、わたしたちのための ものだったのだということに気づいたのです。いやもっと正確に言うなら、神に熱心であ ると思い込んで、熱心に教会を迫害し、実はそれによって神に敵対してきた自分、まさに 「神の敵」であったこのわたしのために、主イエスが身代わりとなって神の呪いと裁きを 受けてくださったということなのでした。


4.わたしたちのために「十字架につけられたキリスト」

 主イエスは呪いの木である十字架につけられて、神から呪われました。しかしそれはわ たしたちのためであり、わたしたちの身代わりとなって神に呪われ、裁かれ、断罪されて くださった、それによってわたしたちは神からの裁きを免れる者となったことに、サウロ は気づかされたのでした。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを 律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書 いてあるからです」(ガラテヤ3章13節)。この理解に行き当たったとき、これまでの疑 問は氷解していきました。これまで学んできた旧約聖書の言葉が自分の中で統合されてい き、はっきり理解できるようになりました。預言者が五百年も前に預言していたことは、このことだったのだと理解できたのです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛 みを負い、病を知っている。わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわ たしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。 神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わ たしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わ たしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行 った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53章3~6節)。 確かに彼は「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しん」だのでした。しかしそれは彼 自身の罪のゆえではなくて、彼が身代わりとなった他の者たちの罪のゆえであり、「彼が 刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたち の咎のため」でした。そして「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」、それ が呪いの木につけられたイエスであり、彼こそがまさしくメシア=キリストだということ を、サウロは光輝くこの方を目の当たりにして、知るのです。呪いの木の十字架、それは わたしたちのためのものでした。主イエスは、「神の敵」に他ならないわたしたちのため に、その身代わりとなって呪いの木にかかり、神の裁きを余すことなく代わりに受けてく ださった、それによってわたしたちは罪を赦され、義と見なされるようになりました。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死 んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜し まない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリス トがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示さ れました」(ローマ5章6~8節)。これはパウロが、他の誰よりも自分自身について語 っている言葉です。「わたし、このわたしがまだ罪人であったとき、いやこの方の敵であ ったとき、キリストが敵であるわたしのために死んでくださったことにより、神はわたし に対する愛を示されました」と。


 この日を境にしてサウロはまったく変わってしまいます。これ以来サウロは、「十字架 につけられたキリスト」を自分の主として崇め、この「十字架につけられたキリスト」を こそ語る伝道者となっていきます。この日から20年後、パウロはコリントの教会にこう書 き送りました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたち は、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずか せるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召 された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。・・・なぜな ら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト 以外、何も知るまいと心に決めていたからです」と(1コリント1章22~24節、2章2節)。神の栄光に輝く復活の主と出会い、主イエスに対する理解を根本から変えられたサウロは、 180度転換して、この方を主と仰ぎ、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝える者とさ れていきます。そしてこの方のために自分の生涯を献げて生きていく者となります。その ように「教会の迫害者」サウロを変えていったのは、ご自分の敵のために十字架にかかる ことで、その者に対する愛を表わされた主の大きな赦しの愛に出会ったことによってでし た。この日を境として、生涯を通じてパウロのモットーとなったのは、この言葉です。「な ぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えま す。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死ん だことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、 生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死ん で復活してくださった方のために生きることなのです」(2コリント5章14、15節)。あ なたは何を自分の誇りとして生きていますか。あなたは何を自分の拠り所として生きてい ますか。あなたは誰のために、そして何のために生きていますか。あなたのために呪いの 木、十字架にかかり、あなたの身代わりとなって死んでくださった救い主イエス・キリス トのために生きること、それがわたしたちの人生ではないのでしょうか。「十字架につけ られたキリスト」、この方こそ、わたしたちの救い主であり、あなたの人生の主なのでは ないでしょうか。