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第2課 キリストの苦しみの欠けたところを

キリストのすばらしさに捕らえられてー使徒パウロの 生涯


第2課:キリストの苦しみの欠けたところを(2コリ 11 章 16~29 節、2011 年1月9日)


《今週のメッセージ:隣り人のために苦しむこと(コロサイ1章 2 4 節)》

 わたしたちにはそれぞれに「自分に決められた道」というものがあり、その道を 最後まで走り抜くことが大切です。それは、自分の職業や仕事、様々な役割や務め ということかもしれません。しかし職業や仕事はいずれ変わります。しかし変わら ないものがある、それは人間関係、特に家族との関わりです。そしてその家族に起 こり来ることのために、自分の人生まで変えられ、これまでの生活を変えざるをえ なくなったり、仕事を辞めざるをえなくなることも起こります。そのような中で背 負わなければならなくなること、そのことが「自分に決められた道」と考えていい でしょう。パウロにとってそれは、キリストの体である教会の苦しみを担い、兄弟 姉妹の苦しみを共に背負うということでした。しかしそうやって兄弟姉妹の苦しみ を担い、隣り人と共に苦しむことが、他の兄弟姉妹を慰め、励まし、助けるように なるということを、パウロは知っていました。わたしたちも苦しみます。しかしそ の苦しみが、苦しむ隣り人を慰め、励まし、助けることになるとしたら、わたした ちは喜んでその苦しみを担っていきたいと思います。それによってその人が起き上 がらせられていくのであるなら、喜んでその苦しみを共に背負っていきたいと思い ます。


1.自分に決められた道とは

 先日、新聞に東金に住む男性の記事が掲載されていました。67 歳から十年間、認知症に なった妻の介護をずっとしてこられたという内容で、身の詰まらされる思いで読ませてい ただきました。十年前に交通事故にあい、妻が脳挫傷の重傷を負ったわけですが、それが 原因で認知症になってしまい、以来ずっと介護をしてこられたというものでした。歩けな くなった妻を車椅子に乗せ、食事や入浴の介助、おむつ交換、家事の一切をこなしてきた わけですが、外出もままならず、介護に追われる中で、趣味の陶芸やテニスもできなくな り、夜も眠れず、睡眠薬が手放せなくなる中、介護疲れからご自分も「要支援1」と認定 されるようになっていったという次第が記されていて、いわゆる老老介護ということです が、その果てに起こる事件が、他人事ではなく思えるほど、つらい毎日だったことが記さ れていました。このようにせっかく一生懸命に介護をしてあげても、当の本人がそれを喜 んで感謝してくれたら、やりがいがあるというものですが、時には「助けて」と叫んで、激しく抵抗するということもあったそうで、その間には相当大変なことがあったのだろう と想像することができます。このことはわたしたちにとっても他人事ではなく、同じ問題 を抱え、似たような状況の中で苦しんでおられる方がおられることと思います。年は新し くなっても、抱えている状況は何も変わらない中で、重い心で新年を迎えられた方もおら れるのではないでしょうか。このことを覚えつつ、パウロから学んでいきたいと思います。


 前回からパウロの生涯を学ぶ新しい学びを始めました。そこで前回は、パウロの生涯を 一言で言い表すなら、どのような人生だろうかという、いわば総論的なことを考えたわけ ですが、今日はその2回目です。前回は、パウロとは、自分に決められた道を最後まで走 り抜いた人だったことを考えました。わたしたちはそれぞれに「自分に決められた道・定 められた道」というものがあり、そこから途中で脱落するのではなく、とにかく最後まで 走り抜く、完走することが大切だというのが、前回の主題でした。そしてそこで、自分に とって「決められた道・定められた道」とは、どのようなものかを考えてほしい、それも 深く考えてほしいと申しました。皆さんは、ご自分に決められた道がどのようなものかを お考えになられたでしょうか。そしてそれはどのようなものだとお気づきになられたでし ょうか。今日深めたいのは、このことについてです。自分に決められた道ということで、 多くの方は、たとえば職業や仕事のことを考えられたのではないでしょうか。わたしたち にはそれぞれに、自分がこの地上で果たすべき役割や務めというものがあり、それを職業 や仕事という形で担わされています。だから自分に決められた道の一つが、職業や仕事、 あるいは様々な役割や務めであることは間違いありません。しかしわたしは、ただそれだ けのことをお話ししたわけではありませんでした。だから深く考えてくださいと申し上げ たわけなのです。というのは、そういったものは、必ずしも一生涯背負い続けるものでは ないからです。いつの日かは、今の仕事を離れ、また職業を変えることになりますし、今 ある社会的な役割や務めからいずれは解かれていきます。それは定年を迎えるという形で そのなることもありますが、あるとき突然降って湧いたような思いがけない出来事によっ て、そうせざるをえなくされてしまうこともあります。最初に紹介した男性のように、こ れまで幸せに暮らしていた暮らしが、交通事故によって一変してしまうというようなこと が、わたしたちにも起こるわけです。職業や仕事は、いずれは変わるものです。しかし変 わらないもの、変えることができないものがある、それは人間関係です。特に家族との関 わりです。そしてその家族に起こり来ることのために、自分の人生まで変えられてしまい、 これまでの生活を変えざるをえなくされてしまったり、仕事を辞めざるをえなくなってし まうことが起こります。あるいはまた自分自身が思いもかけない重い病気にかかって、そ の病気の治療にかかりきりになり、仕事も辞めなければならなくなることもあるでしょう。 そうやって自分の人生が大きく変えられてしまい、大きな変更を余儀なくされていく、そ のようなことの中で背負わなければならなくなること、そのことを自分に定められた道と申し上げてきたのです。


2.キリストの苦しみを背負う

 パウロにとってそれは何だったかを考えていきましょう。それは一言で言えば、苦しみ の道でした。キリストのために苦しむこと、キリストの苦しみを担い、背負うこと、それ がパウロに決められた道でした。パウロはこう語りました。「そして今、わたしは、“霊” に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりま せん。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町 でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、 主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことがで きさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(使徒20章22~24節)。パウロが 語る「自分の決められた道」とは、投獄と苦難でした。そしてこのことがここで考えたい ことです。パウロの職業は何ですかと問われたら、天幕造り、テントメーカーです。しか しそれは生計を立てるための手段で、本業はキリスト教の伝道者でした。パウロは、キリ ストの福音を宣べ伝えるために、その生涯を使い尽くした、そう言って良いと思います。 福音宣教、それこそがパウロが生涯をかけて果たしていった務めであり使命でした。しか しそれと表裏一体となってつきまとうものがありました。それは福音宣教のために苦しむ ことでした。喜んで福音を聞いてくれる人たちばかりではない中で、パウロはその福音を 語るために、多くの苦しみを担わなければなりませんでした。それが2コリント11章23節 以下で記されていることです。それは福音を語るゆえの苦しみでした。しかしパウロの苦 しみはそれだけではなく、福音を語ったことのゆえに伴う、もう一つの苦しみがありまし た。それがこのリストの最後に記されていることです。「このほかにもまだあるが、その上 に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが 弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わた しが心を燃やさないでいられるでしょうか」(11章28、29節)。福音を語ることで、キリ ストの教会が生み出されていきました。そこには多くの兄弟姉妹が集うようになりました。 そしてそこに集う兄弟姉妹たちも、それぞれが福音のため、またキリストへの信仰のゆえ に苦しみました。その苦しみの中で信仰を弱らせる者や、信仰から離れる者も出てきまし た。パウロは、自分自身が様々な困難に直面して苦しんだだけではなくて、他の兄弟姉妹 の苦しみをも担い、教会の苦しみをも背負っていった、そこにパウロの福音宣教における 苦しみがありました。それは使徒言行録で語っているような、投獄と苦難といった苦しみ だけではなくて、兄弟姉妹たちの苦しみ、キリストの体である教会の苦しみを担うことで もあったのでした。そしてこのような教会の苦しみを共に担い、背負うことを、パウロは 自分に決められた道と理解し、受け止めていったのでした。


3.隣り人の苦しみを共に背負う

 しかしそれは、わたしたちにも当てはまることではないでしょうか。わたしたちにはそ れぞれに、自分に決められた道・定められた道があることを前回考えました。しかしそれ は職業や仕事、社会的役割や務めといった一時的なものではなくて、生きている限りいつ まで背負い続けなければならないものです。それは誰もが例外なく担わされていることで、 自分の隣り人の苦しみを共に背負っていくということです。それを自分に決められた道、 定められた道として理解し、受け止めていただきたかったのです。パウロが最後まで走り 抜いた自分の道、それはただ福音宣教という自分に課せられた務めを果たし切るというこ とだけではなくて、さらにそれに伴うもう一つのキリストの苦しみを担っていくというこ とでもありました。そのキリストの苦しみとは、抽象的な漠然としたものではなくて、キ リストの体である教会に連なる兄弟姉妹の苦しみのことでした。わたしたちも同じ苦しみ が委ねられているのではないでしょうか。それは単に教会の兄弟姉妹たちだけではなく、 そこに連なる家族や友人、周りを取り巻く多くの人々の苦しみを担い、共に背負っていく ということでもあるのです。そしてそれが、自分に決められた道ということで、考えてい きたいことなのです。今回のパウロの生涯についての学びの中心主題を「キリストの苦し みの欠けたところを」としましたが、これはコロサイ1章24節から取りました。キリスト の苦しみに欠けたところがあるのかと問題になる箇所ですが、細かい説明は省きます。こ こでパウロが言っている「キリストの苦しみ」とは、わたしたちを救うための十字架の苦 しみ、贖いのための苦難のことではなくて、キリストの体である教会に連なる兄弟姉妹の 苦しみのことです。ここでパウロは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを 喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をも って満たしています」と語り、それは「あなたがたのために苦しむ」ことだと明言します。 パウロに定められた自分の道、それは兄弟姉妹の苦しみを担い、共に苦しむことなのでし た。


 先日、久しぶりに「相田みつを美術館」に行ってきました。相田みつをさんの詩の中で いくつか好きなものがあるのですが、その中の一つに「道」という詩があります。


  長い人生にはなあ どんなに避けようとしても どうしても通らなければならぬ道

  というものがあるんだな そんなときはその道を だまって歩くことだな

  愚痴や弱音は吐かないでな 黙って歩くんだよ ただ黙って涙なんか見せちゃダメだぜ

  そしてなあその時なんだよ 人間としての いのちの根がふかくなるのは


 人生を辿る中には、どうしても避けられない道、通らなければならない道というものが あるということは、この1~2年、わたし自身も実感させられてきたことでした。しかしそれをじっと耐えて歩いていく中で、人間としての「いのちの根」が深くされていくとい うことで、何度この詩に励まされてきたか分かりません。横にそれることも、後ろに退く こともできない状況の中で、前に進むしかない、しかもそれは大変な困難が伴うことが分 かりきった上で、それを承知で腹をくくって前進していかなければならない、そんなとき がありましたが、そこで前に進んでいく勇気を与えてくれた詩です。わたしたちにもそれ ぞれに自分に決められた道があり、それを退くことなく、避けることなく、また逃げるこ となく走り抜いていく、そのことが求められています。しかもその道とは、自分の身近な 隣り人、とりわけ家族のために苦しみ、その苦しみを担っていくということです。そのた めに自分の思い描いていた人生が大きく変えられてしまうかもしれません。そのためには やりがいのある大切な仕事を辞めなければならなくなるかもしれませんし、その隣り人の ため、家族のために、自分の大切な時間を奪い取られていってしまうかもしれません。し かしそれを担うことが求められているのであるなら、わたしたちは喜んでそれを担い続け ていきたいと思うのです。そうやって、自分に決められた道を避けることなく、逃げるこ となく前進し続けていきたいと思います。そこで相田さんの詩は、それはそれで励ましを 与えられるものではありますが、今回は星野富弘さんと共同の企画展となっていて、半分 は星野さんの作品が展示されていました。その中にこのような作品がありました。


  竹が割れた こらえにこらえて倒れた しかし竹よ その時おまえが 

  共に苦しむ仲間達の背の雪を 払い落としながら倒れていったのを 私は見ていたよ

  ほら 倒れている おまえの上に あんなに沢山の仲間が 起き上がっている


 降り積もった雪の重みに耐えかねて、竹が倒れてしまいます。しかし倒れるとき、同じ ように苦しんでいる他の竹の上に積もっていた雪を払い落としながら、倒れていきました。 それによって、他の竹は、起き上がることができたというものです。一本の竹の犠牲によ って、他の竹が助けられていった、そこにわたしたちの苦しみの意味があります。キリス トの苦しみ、教会の苦しみ、兄弟姉妹の苦しみを担ったパウロは、こう語りました。「神 は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただ くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの 苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰 めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それは あなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなた がたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる のです」(2コリント1章4~6節)。わたしたちが苦しむ、しかしそれは他の兄弟姉妹 の慰めとなる。わたしたちが悩む、しかしそれが他の兄弟姉妹の励ましとなって、彼らが その苦しみに耐えることができるようにされていくと語られます。パウロはそのために苦しみました。そしてその苦しみから逃げませんでした。それは自ら苦しむことによって、 他の兄弟姉妹を慰め、励まし、助けるようになるためでした。わたしたちも苦しみます。 しかしその苦しみが、大切な家族を慰め、励まし、助けることになるのでしたら、わたし たちは喜んでその苦しみを担っていきたいと思います。それによって苦しんでいる家族が、 また兄弟姉妹が起き上がらせられていくのであるなら、喜んでその苦しみを共に背負って いきたいと思います。それが自分に決められた道であり、定められた道なのです。それを 喜んで担う秘訣を、パウロは知っていました。だからわたしたちも、その秘訣をパウロか ら学んでいきたいと思います。そうやってわたしたちも、「キリストの苦しみの欠けたと ころを身をもって満たして」いく者とされていきたいと思います。