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第9講 インマヌエルなる救い主イエスに対する賛美の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」

-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)


第9講:インマヌエルなる救い主イエスに対する賛美の言葉

(マタイ8章18~23節、2012年2月26日)


【今週のキーワード:救い主であるインマヌエル】

 キリスト教信仰とは、ナザレのイエスをどのように信じるかにあります。ある人は、イ

エスをユダヤ教の改革者と見なし、ある人は崇高な愛の教えを説いたラビと見なします。

他にも様々なイエス像、イエス信仰がありますが、こうしたものがキリスト教信仰だと言

うことはできません。キリスト教信仰の中心は「イエスはキリストである」と信じること

にあるからです。そして「イエスはキリストである」という信仰の中心にあることが、イ

エスは「罪からの救い主」であり、インマヌエル、即ち「わたしたちと共にいてくださる

神」であるということです。聖書が啓示する「主なる神」は、わたしたちを背負う神であ

り(イザヤ46章3,4節)、わたしたちの苦しみを共にしてくださる神(イザヤ63章9節)

ですが、それはまさに主イエスにおいて具現されたものとなりました。主イエスは、わた

したちの苦しみをご自身の苦しみとして背負ってくださるだけではなく、その苦しみの根

源である罪をも背負ってくださいました。そしてそのためにわたしたちと同じ人間とな

り、人間としての苦しみを味わい尽くしてくださったばかりか、罪をも担って死んでくだ

さいました。その主イエスの臨在(インマヌエル)と贖罪(罪からの救い主)によって、

わたしたちは罪から救われる者とされ、また神と共に生きる者とされました。こうしてわ

たしたちと共にいてくださるインマヌエルなる主イエスこそ、罪からの救い主なのです。


1.罪からの救い主としてのヨシュア

 先週の「灰の水曜日」から主イエスの受難を覚える受難節に入りました。その第一主日

に、そのことを覚える信仰箇条にちょうど行き合ったことに摂理を覚えます。前課では、

「イエスは主である」という信仰告白について考えました。そこで主は、ご自分を無にし

てとことんへりくだり、十字架の死に至るまで従順であられたという謙卑の様を見てい

きました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しよ

うとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられまし

た。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした」と(フィリピ2章6~8

節)。この尊い犠牲によって、わたしたちは「主のもの」とされ、主の僕、主に仕える者

とされたのであり、わたしたちは「代価を払って買い取られた」者でした(1コリント6

章20節)。どうしてこの方が「わたしたちの主」なのかというと、それは「この方が、

金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放

し、また買い取ってくださり、わたしたちを体も魂もすべてを御自分のものとしてくだ

さったから」でした1(『ハイデルベルク教理問答』問34)。主の尊い犠牲による贖いの

ゆえに、わたしたちは「主のもの」とされ、主の僕として主に仕え、主のために、また主

と共に生きる者とされました。それが「イエスは主である」という信仰告白に生きるとい

うことですが、そのためには、主が徹頭徹尾ご自分を捨て、ご自分を無にしてへりくだ

り、わたしたちに仕え、ご自身の命を与えてくださったからでした。このことが次の信仰

箇条につながっていきます。ここで次に考えたいのは、「イエス」についてです。イエ

ス・キリストを信じる信仰こそ、キリスト教信仰の中心であり、最も初期の信仰告白は

「イエスは主である」、「イエスはキリストである」、「イエスは神の子である」という

ものでした。ここで「主」「キリスト」「神の子」と呼ばれる、ナザレのイエスについて

考えたいと思います。そもそも「イエスを信じる」とは、どういうことでしょうか。イエ

スとは一体どのような方なのでしょうか。


 イエスとは、旧約聖書ではヨシュア(イェホシュア)で、その意味は「主は救い」「救

い主」というものでした。旧約聖書には、主イエスの予型となっている二人のヨシュア、

ヌンの子ヨシュアとヨツァダクの子ヨシュアが登場します。ヌンの子ヨシュアは、エジプ

トから脱出したイスラエルの民を、約束の地カナンへと導き入れた指導者であり、ヨ

ツァダクの子ヨシュアは、バビロン捕囚からの帰還民の指導者、大祭司で(ゼカリヤ6章

10、11節)、崩れ落ちた神殿を再建するために尽力した人物でした(エズラ5章2

節)。どちらも神の民を約束の地、安息の地へと連れ上る働きをすることで、主イエスを

予型しました。主イエスはこの二人のヨシュアと重ね合わせて考えられ、かつて彼らがそ

うであったように、主イエスも神の民を、約束の地、安息の地、天の故郷へと導き入れて

くださる指導者、大祭司であって、そのためにこの世の王国、肉の世界であるエジプト、

バビロンからわたしたちを連れ出して、解放してくださる方でした。つまり主イエスは、

罪の捕らわれから解放し、自由をくださる「罪からの救い主」であり、そのことは主の

天使を通して伝えられました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさ

い。この子は自分の民を罪から救うからである」とあるとおり、このイエスという名は、

両親の願望や期待によってつけられたものではなく、神御自身によってつけられた名で

(マタイ1章21節)、そこに神の御心が反映され、主ご自身の神からの使命を現わすも

のとなっています。その使命とは「自分の民を罪から救う」ことでした。


2.神の臨在と贖いのしるし

 ですからこの方の来臨は、神とわたしたちとの交わりを断絶させている根源の「罪」

を取り除くことで、「ご自分の民を罪から救う」ことが目的でした。そのことこそ、旧約

時代の儀式が表し続けてきたことで、主イエスはそれを成就し、実現するために来られた

方でした。ですから主イエスの来臨は、突然降って湧いたような出来事ではなくて、旧約

聖書において預言され、待望されてきた出来事であり、それが成就したということなので

した。イスラエルと共にあった幕屋・神殿は、神の「臨在」、すなわち「神は我々と共

におられる」インマヌエルのしるしであり、それと同時に「贖罪」の場でもありました。

聖なる神が「臨在」するためには、「贖い」が必要でした。罪ある人間は、聖なる神に

近づくことができず、聖なる神が罪深い人間と共にあるということはありえないことだか

らです。そこで神の「臨在」の場所である幕屋・神殿は、同時に「贖い」の場所でもあり

ました。この神の「臨在」と「贖い」とが一体となり、生きた幕屋・神殿として、それを

人格として具現した方こそ、イエス・キリストでした。だからこの方は、「ご自分の民を

罪から救う」方としてイエス(救い主)と呼ばれ、またインマヌエル(わたしたちと共に

いる神)とも呼ばれたのです。イエスとは、まさしくこの神の幕屋・神殿が、わたしたち

のただ中にまでおいでくださった方であるということでした。ヨハネは、神ご自身であ

り、また神と共にあった「言」、万物を創造された「言」、まさにその「言は肉となっ

て、わたしたちの間に宿られた」と証言しました(ヨハネ1章1~3、14節)。「宿ら

れた」とは天幕を張ったということですが、その天幕とは言わずもがな、神の幕屋を意

味します。それは、「父の独り子としての栄光」に満ちた神の御子(言)が、地上に住む

わたしたちのただ中にまで降って来てくださり、わたしたちと一緒に住んでくださったと

いうことでした。かつて臨在と贖いの幕屋・神殿を満たした神の栄光が(出40章34節、

列王上8章10節)、わたしたちのただ中にまで降り、わたしたちと同じ人間となって、

わたしたちと共にいてくださることになった、それがイエス・キリストでした。幕屋と

は、荒れ野にある神の民と共に、その苦難の旅路を共に歩まれた神ご自身を意味するも

のでした。幕屋と神殿、それらは「神は我々と共におられる」インマヌエルという約束

の目に見えるしるしであり、イエス・キリストを指し示すものに他なりませんでした(ヨ

ハネ2章21節)。


 ですからこうして生まれられた主イエスが、イザヤの預言の成就であり、それはインマ

ヌエルであるということを、マタイは明らかにします。「見よ、おとめが身ごもって男の

子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と(マタイ1章23節、イザヤ7章14

節)。この「神は我々と共におられる」という約束こそ、旧新約聖書の全体を貫く神の約

束である「恵みの契約」でした。旧約時代にはイスラエルを雲と火の柱が導き、そこに

幕屋・神殿がありましたが、それは「神は我々と共におられる」という約束の、目に見

えるしるし、つまり神がそこに確かにおられるという「臨在」のしるしでした。その約束

が、主イエスの誕生によって成就したことを、マタイは明らかにするのです。そしてマタ

イは、この最初の言葉(1章23節)と共に、最後を主イエスご自身が「わたしは世の終

わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)という約束をもって天に昇られ

る、その約束で福音書をしめくくることで、福音書の全体をこの「神は我々と共におられ

る」インマヌエルという神の約束でしめくくり、マタイ福音書の中心主題がこの約束にあ

ることを明らかにしますが、それはまた同時に聖書全体の中心主題でもありました。そ

して神は、この約束を果たすために、文字通りわたしたちの許にまで降り、宿ってくだ

さって、わたしたちと共にいてくださることを、主イエスの誕生によって実現したので

す。それも神がわたしたちと同じ人間となることによって、罪のために神と断絶し、隔絶

した人間が、神と一体とされる保証を、「神が人となる」という目に見える形で得るとい

うことによってでした。主イエスは、わたしたちの不安定で不安に満ちた、不確かな人生

のただ中にまで、やって来てくださった。そこに神の御子が来てくださり、神の御子がわ

たしたちと共に宿り、これからずっと一緒に滞在してくださるということです。これが

「受肉」ということで、神が人間となられ、そのために人間の肉体をとられたということ

でした。


3.罪を贖うための主の受肉

 これは「人間が神になる」ことではなく、「神が人間になる」ことでした。なぜ神の

子が人間(人の子)となる必要があったのでしょうか。それは人間に罪があるからでし

た。この罪を取り除き、罪の償いのために、罪のない神の子が人間となって、人間の罪を

代わりに担い、背負って、身代わりとして処罰されたのです。神の子がおいでになられた

のは、わたしたちの罪を取り除くことで、わたしたちを神の子とするためでした。イザヤ

は預言しました。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち

砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わ

せられた」と(イザヤ53章5、6節)。この「彼」とは、苦難の僕である主イエスのこ

とでした。神は、罪に生き、罪に死ぬわたしたちのために、ご自分の独り子を送り、御

子にわたしたちの罪を背負わせて処罰することによって、わたしたちの罪を取り除いてく

ださいました。神の御子の犠牲の死によって、わたしたちの罪の償いを果すことで、罪を

取り除いてくださったのでした。主イエスの十字架による死とは、そこでわたしたちすべ

ての罪を背負って、わたしたち自身の身代わりとなって罪に対する刑罰を代わりに引き受

け、それによってわたしたちの罪を取り除き、精算し、償いを果たしてくださったという

ことでした。わたしたちがこれまで犯してきた罪、今犯している罪、そしてこれから犯す

であろう罪を含めて、わたしたちの一切の罪を御自身に引き受けて、わたしたちの身代わ

りとして主イエスが代わりに死んでくださり、それによってわたしたちに対する罪の要求

も死の支配も、その結果である悲惨さも、そのすべてをあの十字架の上で終わらせてくだ

さったのです。こうして身代わりによる償い、つまり「贖い」を主イエスがわたしたちの

ために果たしてくださり、そうしてわたしたちの「罪に対する神の刑罰を背負うこと」で

主イエスはわたしたちを救ってくださったのでした。


 「贖い」とは、捕虜として捕らえられていた者を、身代金を支払って解放すること、あ

るいは奴隷を代価を払って解放することです。わたしたちは、いわば罪の奴隷であり、悪

魔のとりことされているのですが、そこから解放されるために、主イエスが代価を支払っ

てくださったのでした。それが「ご自身の尊い血」、すなわちご自身の命でした。つまり

罪のために死ぬべきわたしたちのために、主イエスが身代わりとなり、わたしたちが受け

なければならない罪の刑罰を、一切ご自身に引き受けてくださり、わたしの代わりに死ん

でくださったのでした。このように主イエスが、わたしたち自身の受けるべき罪の裁きを

身代わりとして受けてくださったことにより、わたしたちが罪と死から解放されました。

その「贖い」によって主イエスが「わたしたちの主」となり、わたしたちは「主のもの」

とされたのでした。「この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償

い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」2 (『ハイデルベルク教理

問答』問1)。聖書は、主イエスの十字架が、わたしたちの罪のためのものであることを

証言します。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死ん

でくださった」のであり(ローマ5章8節、1コリント15章3節)、主イエスは「多く

の人の身代金として自分の命を献げるために来た」のでした(マルコ10章45節、1テモ

テ2章6節、1ヨハネ2章2節)。「そして十字架にかかって、自らその身にわたしたち

の罪を担ってくださいました。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされま

した」(1ペトロ2章24節)。また「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちの

ために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたので

す」(2コリント5章21節)。こうして「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと

を、神はしてくださったのです。つまり罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこ

の世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8章3節)。この

ように罪のない神の子が人間となって、人間の罪を代わりに背負い、その罪を取り除いて

くださいました。そのために主イエスはわたしたちの許においでくださいました。それは

神の子が人間(人の子)となることによって、人間(人の子)を神の子とするためでし

た。そしてこのとき以来、御子は「まことの神」であると同時に、永遠に「まことの人」

となってくださったのでした。「神が人となる」という神の御子の受肉によって、神は永

遠に人と共にいてくださることになり、こうして「神は我々と共におられる」という約束

を目に見える形で、しかも完全にまた永遠に実現してくださったのでした。


4.わたしたちの苦しみを担ってくださる主

 「それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償

うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自

身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできに

なるのです」(ヘブライ2章17、18節)。そのために主イエスは、わたしたちと全く同

じ姿、同じ弱さ、同じ肉体になってくださいました。そしてわたしたちを罪から救いだす

ために、この方はごくありふれた、誰一人気にとめることのない平凡な名をもって、この

地上においでくださったのでした。豪華な王宮ではなく家畜小屋でひそやかに生まれ、

その名をもって住民登録をされ、税金を課せられ、人間の支配者に支配されて、苦しめら

れる者の一人となってくださったのです。父ヨセフの死後は、母マリアと四人の弟のほ

か、妹たちを育てて、生計を維持していくことに苦労され、重税にあえぎながら、飢えと

渇きに悩まされ、疲労困憊し、心萎え、悲しみ、涙することもありました。そして埃まみ

れになりながら地上を歩かれ、神々しさも神秘さも、何一つ感じられることがない普通

の人として、わたしたちと全く同じ人間となってくださったのです。そしてこの世の中に

生き、しいたげられつつ歩む者と同じになってくださることで、その人々の罪を贖う救い

主となられたのでした。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではな

く、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたの

です」(ヘブライ4章15節)。こうして聖なる神の子が、わたしたちと同じ肉体をとって

くださいました。それにより、この方は死すべき肉体を身に引き受け、肉体をもつ苦しみ

と悩み、その弱さも危うさもみな知りつくしたお方として、わたしたちの傍らに共に立っ

てくださるのです。


 この肉体をもって犯すわたしたちの罪の諸々の悩みを知るものとして、わたしたちの兄

弟となってくださったのです。それは、わたしたちの良き理解者として、良き兄弟となら

れたということなのでした。そのために主は母の胎に宿るところからわたしたちと同じ

になってくださり、それによって罪をもってはらまれたわたしたちの罪の人生を、その初

めから「やり直して」くださり、それによって肉をもって辿る人生のあらゆる苦しみと試

練とを身をもって味わい尽くしてくださったのでした。こうして主イエスが人間となら

れ、わたしたちと同じ肉体をとられたというのは、まさにわたしたちが日々に直面する

苦しみや悲しみ、生きていく上での問題や困難を、この方も同じように経験され、味わ

われ、苦しまれたということでもありました。わたしたちが今抱えこんでいる問題や悲し

みを、この方はよくご存じなのです。そのことを誰よりもよく理解してくださった上で、

わたしたちを励まし、助け、支えてくださる、そういう方として、主イエスは人間となっ

てくださったのでした。それは、依然として自分の弱さの中にたたずんだままのわたした

ちの弱さを受けとめ、理解すると共に、その弱さの中で歩めるように導いてくださる方で

もあるということです。主イエスもわたしたちと同じ苦しみを受けられた、それはわたし

たちにとって大きな慰めです。わたしたちが辿る人生の道行きでのあらゆる苦しみを、こ

の方は既に知っておられるのであり、その方を人生の同伴者として歩んでいくのですか

ら、なんと心強いことでしょうか。わたしたちは自分の人生の確かな道案内であり、深

い同情者、理解者を持つのです。主は、その地上の全生涯、つまりこの世のご生涯の全て

の時において苦しみを受けられ、およそ人が経験し味わうところのあらゆる苦難を通って

くださったのであり、主が「あらゆる点で」わたしたちと等しくなられたというとき、

そこでわたしたちは今自分が抱えている苦しみの本当の理解者であり解決者である方を

持っているのです。


 わたしたちが主イエスを「罪からの救い主」として信じ、告白するとき、それは十字架

につけられたことにおいてそうであり、主イエスは「十字架につけられた救い主」だとい

うことが、ここで信じ、告白するべき事柄です。また新しい一週間が始められていきま

す。しかしそれは必ずしも希望に満ちた、喜びに輝くばかりのものではないかもしれませ

ん。むしろ昨日と変わらない労苦を背負い続け、苦しみと悩み、病と痛みを担い続けてい

く一週間かもしれません。そのことを覚えてわたしたちの心は萎え、弱り、挫けそうにな

ります。けれどもまさしくそこでわたしたちは、わたしたちが信じ、仰ぐ主イエス・キリ

ストが「罪からの救い主」であることを告白します。そしてまさにそのことにおいて、今

日また再び背負わなければならない苦しみと悩み、病と痛み、労苦と涙のすべてを、この

方ご自身が担ってくださり、背負ってくださる中で、弱り果てるわたしを受けとめてくだ

さり、孤独のうちに悩むわたしを支えてくださり、罪から救い出してくださることを信じ

ることができるのです。まさにその方がインマヌエル、「神が我々と共にいます」ことを

体現してくださった方でした。新しい一週間を始めようとするわたしたちも、こうしてわ

たしたちのために十字架にかかってくださった方を前に、この方こそわたしたちの「罪か

らの救い主」として、まさしくインマヌエルである方と告白していきましょう。このこと

こそ、主イエスを信じるということではないでしょうか。




1 吉田隆、『ハイデルベルク信仰問答』証拠聖句付き、2005年、新教出版社、69~70頁

2 同上、8頁