第11講 十字架にかかられた「神の子」への感謝の言葉

「わたしたちは何を信じるのか」-信仰の基礎を見つめる二年間(ニカイア信条に学ぶ)

 

第11講:十字架にかかられた「神の子」への感謝の言葉(マタイ27章27~54節、2012年3月18日)

 

【今週のキーワード:神の子】

 古代世界において「神の子」は支配者が僭称した称号でした。自らを「神の子」と称することによって自分の政治的支配を正当化し、神格化することで人々からの崇拝を強要したのです。皇帝が「神の子」と崇められ、礼拝が強要される世界の中で、しかしキリスト者は、イエスこそが主であり、まことの「神の子」であると告白しました。それは彼らにとって命を賭けた告白となりましたし、そのために払わなければならない代償はあま

りにも大きなものでした。しかし彼らは告白したのです。「イエス・キリスト、神の子、救い主」と。この言葉の頭文字を集めるとイクスース(魚)となります。「独り子」が、父と御子との独特な関係を示すのに対して、「神の子」は父が御子を世にお遣わしになられたことを示すものでした。父が御子をお遣わしになったのは、父の許におられた御子が、父を示すためでした。そしてその御子によって示された父とは、わたしたちを御子と同じように愛してくださる「愛の神」であるということでした。父は御子を、「わたしたちの罪を償ういけにえ」として遣わしてくださいました。そして御子は、父を愛し、わたしたちを愛するゆえに、ご自分を献げて、「命を捨ててくださいました」。こうして御子の十字架において現された「神の愛」を示し、その愛を成就するために、御子が世に遣わされました。「神の子」を信じるとは、御子の十字架に現された「神の愛」を信じることなのです。

 

1.「神の子」と「独り子」

 これまで「唯一の主イエス・キリスト」について考えていきました。今回は「神の子、独り子」ということについて考えてみたいと思います。ニカイア・コンスタンティノポリス信条のこの部分を、「独り子である神の子」と訳してみました。主イエスは神の子であり、しかも独り子であるということです。実はこの部分については、この「神の子」と「独り子」という二つの言葉を一つにして、まとめて訳している翻訳がほとんどです。22種類の翻訳を参照しましたが、その中で、この二つを分けて訳しているのは2つだけでした。その一つが、『讃美歌21』にある、日本キリスト教協議会によるニケア信条です1。そこでは「主は神のみ子、御ひとり子であって」と訳されています。もう一つは小高毅というカトリックの司祭の方の翻訳です。この方は日本での東方教会教父研究の第一人者の一人であり、聖アントニオ神学院というカトリックの神学校で教父学を教えておられる方ですが、このように訳されています。「〔この方は〕神の御子、御独り子であり」と2。しかしそれ以外の翻訳では、だいたい「神の独り子」と二つを一つにして訳されています。「神の子」も「独り子」も同じ意味だから、それでよいという考えで、そのように訳されているのだと思います。しかし原文はきちんと区別されていますし、そもそも主イエスが「神の子」であるということと、「独り子」であるということとは、別々の信仰白として発展していった歴史的経緯がありますので3 、やはりこの二つを区別し、二つを併記する必要があると思いますし、この二つの言葉が意味する信仰の内容をきちんと読み取っていく必要があると考えます4 。原ニカイア信条(325年)でも、「神の子、父から生まれた独り子」と区別されています。ただ比較対照表をご覧いただくと分かる通り、この「父から生まれた」という言葉がかかる部分に、違いがあります。原ニカイア信条で

は、それが「独り子」にかかって「父から生まれた独り子」となるのに対して、ニカイア・コンスタンティノポリス信条では、「神の子、独り子、すべての時に先立って父から生まれた(方)」となります。いくつかの例外を除いて5、ほとんどの翻訳も、「独り子」と「父から生まれた」を区別して別々に訳します。主イエスが「神の子・独り子」であるという信仰は、使徒信条も「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」

と告白するとおりです。

 

 ここで主イエスを「神の子」と告白するとは、どういうことかを考えたいと思います。実はこの「神の子」という言葉は、古代ローマ帝国時代以前から、巷に流布したもので、支配者に愛好された言葉でした。エジプトの歴代のファラオたちは、自らを「太陽神ラーの子」と称して崇められていましたし、アレクサンドロス大王はエジプトを遠征した折、リビアのアモン神殿で「アモン神の子」という神託を受けたとされています。初代ローマ皇帝アウグストゥスも「神の子」の称号を受け、その後の皇帝たちも「神の子」と称され、礼拝されてきました。つまり「神の子」という称号は「支配者」を意味するもので、とりわけローマ時代にあってそれは皇帝を意味するものでした。この「神の子という称号は、帝国の支配者たちを意味する称号として、人間を神の位に高める機能を果たしていた」のであり6、また「政治的宗教の文脈において支配者を神々しくすることや支配の

イデオロギーとして用いられ」たものでした7。支配者が自分の政治的支配を正当化する手段として、自らを「神の子」と称すると共に、それにふさわしい礼拝を臣民から強要するためのものでした。それに対して「教会は、こうした『神(々)の子ら』という複数形の社会的称号に対して、キリストを明確に単数形で『神の独り子』と呼んできた」のでした。それは、「神の子は複数ではない。イエス・キリストは神の唯一の子であって、神

子と呼ばれるべきものは、他に存在しない」8 ということの信仰告白でした。ですからこの「イエスは神の子である」という告白は、「イエスは主である」という告白と共に、当時のキリスト者たちが、命を賭けて告白しなければならないものとなりました。なぜなら自らを「主」であり、「神の子」と自称すると共に、それにふさわしい礼拝を強要する皇帝がいたからでした。キリスト者がローマ帝国から迫害された理由も、そこにありま

した。使徒パウロも、その理由で訴えられ、危ない目に遭いそうになったことがありました。テサロニケで伝道していたとき、「彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言って」いることで訴えられます(使徒言行録17章7節)。そこでパウロたちは「世界中を騒がせている連中」と評されました(同6節)。なにより主イエスが十字架で処刑されたとき、その罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれたのは、そのためで

した(マタイ27章37節、マルコ15章26節、ルカ23章38節、ヨハネ19章19節)。このように自らを「神の子」と僭称し、神格化することでその支配を正当化し、臣民からの礼拝を強要する支配者に対抗して、ナザレのイエスこそ、まことの「神の子」であるという信仰を告白した言葉、それが「神の子」という言葉なのでした。それは彼らにとって命を賭けた告白となりましたし、そのために払わなければならない代償はあまりにも大きなものでした。しかし彼らは告白したのです。「イエス・キリスト、神の子、救い主」と。この言葉の頭文字を集めるとイクスース(魚)となります。

 

2.父を示すために遣わされた御子

 この「神の子」を、さらに「独り子」と告白することの理由については、次回考えたいと思います。この「独り子」という言葉は、主にヨハネ文書(福音書・書簡)で用いられているものですが、そこで真っ先に思い出すのはヨハネ3章16、17節ではないでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁

くためではなく、御子によって世が救われるためである」。ここでは「神が御子を世に遣わされた」とあります。この方が御子、つまり神の子と呼ばれる理由は、「神から遣わされた」という点にあります。ヨハネはさらにこう語りました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と(1章14、18節)。神であられるこの方が、父から遣わされたのは、まことの神を示すためでした。そこで主ご自身、このように語られました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を

見ている」と(14章6、7節)。そして父を見せてほしいと願うフィリポに対して主は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」と語られました(同9、11節)。

 

 主は「わたしと父とは一つである」と言われる通り(10章30節)、父なる神との深い交わり、独特の関係にある方でした。だから他の「神の子」と区別して「独り子」とも呼ばれるのです。その「独り子」である「神の子」の主は、このように父に祈られました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられることを、世が知るようになります。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」(17章21~26節)。

 

3.御子において現された神の愛

 御子である主イエスが示してくださった父とはどのような方でしょうか。それは御子である主イエスを愛しておられる愛と同じ愛で、わたしたちをも愛しておられる愛の神であるということでした。主イエスが示してくださった父なる神、それは御子をも惜しむことなくわたしたちの許に遣わして、わたしたちを救おうとしてくださった方でした。ここで主イエスは重ねて言われました。「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられることを、世が知るようになります」(17章23節)。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」と(同26節)。ヨハネは手紙の中で、さらにこう綴りました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と(1ヨハネ4章9節)。そしてそこでこの独り子が遣わされた理由を記しました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と(同10節)。御子がこの世に遣わされた理由、それはわたしたちの罪の贖いを成し遂げることでした。そのために御子は、「わたしたちの罪を償ういけにえ」として、父によって遣わされ、御子もそれに従順に従われたのでした。ヨハネが「ここに愛があります」と語るとき、そこには御子をも惜しまずわたしたちにお与えくださった父の愛があり、またわたしたちのためにご自身を献げてくださった御子の愛があります。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」とヨハネは述べました(同3章16節)。主イエスを神の子と信じるとは、なによりもわたしたちに対するこの神の愛を信じるということです。それは御子をお遣わしくださった父の愛と、その父の愛に応えてご自分を献げてくださった御子の愛、そしてその父と子の豊かな交わりの中に招き入れようとしてくださる神の愛です。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(同15、16節)。

 

4.神の御子の栄光としての十字架

 ここでヨハネは、神の子としての主イエスが、神の栄光を帯びた方であられたことを明らかにします。主は「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と父に祈られました(ヨハネ17章5節)。それは「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光」と言われるものであり(同24節)、その「栄光」は、恵みと真理に満ちたものであると語りました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。わたしたちは主イエスが持っておられた「父の独り子としての栄光」を、誤解しているかもしれません。それは栄光という言葉が普通に考えさせるように、ご自身がきらきら輝いて、人目を引き耳目をそばだたせるような魅力的なものと考えるかもしれません。しかしヨハネが語る御子の栄光とは、十字架のことでした。ここでも「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と語られました(同4節)。そこで主が「成し遂げた」と言われる業とは、十字架の贖いのことでした。だからヨハネでは、主イエスが十字架の上で語られた最後の言葉が「成し遂げられた」となっているのです(19章30節)。神の御子として天地創造の前から持っておられた「父の独

り子としての栄光」、それは愛でした。そしてその「恵みと真理とに満ちていた」栄光は、十字架において現されたものでした。そしてこの栄光は、ばらばらにされたわたしたちが、「一つ」とされるためのものでもありました。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と主は語られました。わたしたちが「一つ」とされる場所、それは一つの体を食し、一つの杯を分かち合うところにおいてです。一人の主を崇め、その方への一つの信仰を告白する場所においてです。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリント10章17節)。そしてこの主の体において、わたしたちは「一つ」とされていくのです。「実に、キリストはわた

したちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。・・・それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2章14~18節)。十字架の主がわたしたちの相互を隔てる、敵意という「隔ての壁」を取り壊して、愛によってわたしたちを「一つ」にしてくださるのであり、それは一つのパンを共に裂き、一つの杯を分かち合うところで、実現していくのです。こうして十字架の主が、わたしたちを「一つ」としてくださるのです。

 

 十字架にかけられた主イエスに人々は口々にののしり、嘲りました「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と(マタイ27章40、42、43節)。し

かしまさしくこうして死なれた十字架の主こそ、神の子でした。そこでこうした様を最初から最後まで見届けた百人隊長は、最後にこう語りました。「本当に、この人は神の子だった」と(同54節)。主イエスを神の子と信じるとは、わたしたちのために十字架にかかってくださった方を見上げ、そこに現わされた神の愛を信じることです。この後わたしたちは聖餐にあずかります。そこで裂かれるパンと注がれる杯をいただく中で、ご自分の愛する御子を「わたしたちの罪を償ういけにえ」としてお遣わしくださった父の愛と、「わたしたちのために、命を捨てて」くださった御子の愛をかみしめ、感謝と賛美をもって、十字架の主、受難の神の子を見上げていきたいと思います。

 

〔アレクサンドリアのクレメンス「愛の模範としてのキリストの死について」〕

 愛の奥義を熟考せよ。そうすれば、ただ独り子なる神が明らかにされた御父の懐の幻を見るであろう。神ご自身が愛である。そして、この愛のために神はご自分を明らかにされた。言葉で表せない神の性質は御父としてであるが、われわれへの憐れみは母としてである。御父が女性に由来する性質となられたのは、ご自身の愛においてである。そして、この偉大なる証明は、ご自身から来られた御子であり、また神の愛から生み出された実

であるところの愛である。このために御子はお降りになり、このために人の性質をとられ、このために喜んで人類の苦しみを耐えられた。それは、御子がわれわれの弱さの基準まで降られることによって、われわれをご自身の力の基準まで上げることができるためである。御子がご自身を代償として与えられた時、すなわち、ささげものを注ぎ出される直前に、私たちに新しい約束を与えられた。「わたしはあなたがたにわたしの愛を与える」(ヨハネ13章34節)。この愛の性質と広がりはどのようなものであろうか。私たち一人ひとりのために御子はご自身の命を犠牲にされた。その命は、世界全体に値する価値があるものであった。そして御子は、われわれが今度は互いに対して同じようにすることを要求しておられる9。

 

 

 

1 日本キリスト教協議会共同訳ニケア信条、『讃美歌21』93-4-2、1997年、日本キリス ト教団出版局、147頁

2 小高毅編、『原典 古代キリスト教思想史』2ギリシャ教父、2000年、教文館、246頁

3 「イエスは『神の子』であるとする信仰と、『独り子』であるとする信仰とが別々に成立し、それらが統合されたと見て良いであろう」。

 渡辺信夫、『古代教会の信仰告 白』、2002年、新教出版社、160~161頁

4 信条翻訳本文の脚注③参照。「原文は『独り子である神の子』と二語に区別されている。同格なので、この二つを一つにまとめて訳している訳

 (神の独り子またはひとり子など)が多いが、ここでは区別して訳した」。

5 日本聖公会『改正 祈祷書』では「世々のさきに父から生まれたひとり子・主イエス・キリストを信じます」(166頁)、東京基督教研究所

 『基本信条』(新教出版社)では「主は萬世の前に御父より生れたる神の獨子」(11頁)、日本基督教協議会文書事業部編『信条集』前篇

 (新教出版社)では「あらゆる代のさきに御父より生まれたまえる、神の生みたまえる獨りの御子」(6頁)、デンツィンガー編『カトリック

 教会文書資料集』(エンデルレ書店)では、「すべての世紀の前に父より生れ神のひとり子」(38頁)と訳されている。

6 石田学、『日本における宣教的共同体の形成 使徒信条の文脈的注解』、2004年、新教出版社、78頁

7 ロッホマン、『講解・使徒信条-キリスト教教理概説』、1996年、ヨルダン社、131頁

8 石田、前掲書、79頁

9 アレクサンドリアのクレメンス、「マルコによる福音書10章17~31節の注解」、『キリスト教神学資料集 上』、2007年、キリスト新聞社、

 779頁