第17講 教会の純潔と平和を維持するための政治と戒規

洗礼準備講座:キリストにつながって生きる

 第17講:教会の純潔と平和を維持するための政治と戒規


あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和とのため

に努めることを、約束しますか。


「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わた

しはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ

る。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」マタイによる福音書16章18、19節


1.教会に「政治」は必要かー混乱を避けて秩序を維持するための営み

 そもそも教会には、「政治」が必要なのでしょうか。実はこの点こそ、日本の教会と

キリスト者の最も弱い点なのです。確かに教会は「聖徒の交わり」ですが、完全な聖人

の集まりではなく、逆に罪人の集まりですから、そこには教会らしからぬ争いや分裂も

起こります。互いの熱心さや善意から出た意見の食い違いが、そのような悲しい結果を

生み出すことさえあります。また誤った教理や考え、生活の仕方(倫理)が教会の中に

入り込み、教会を惑わし、混乱に陥れることがありますので、それについて厳しく監督

する必要があります。また教会の活動が、神の御心に適い、より聖書的に実施されてい

くように指導していく必要があります。そのために神は教会に政治をも与えられまし

た。それは罪人の集まりにすぎない教会が、しかし聖霊の導きの中で健全な成長を遂

げ、御心にかなう奉仕をし、聖書的に形成されていくために必要な手段として、教会に

秩序を与え、その「信仰と生活における純潔と平和を維持するため」に与えられたもの

でした。そしてそれは、教会が「一つ」(公同性)であることを見える形で具現し実現

していくためのものでもありました。


 「教会政治」とは、教会が真にキリストの教会として、また聖書的な教会として育成

され、信仰にある一致と聖書の指導の中で活動し、成長していくために与えられたもの

です。「信仰告白の規範性」を実質的なものとして機能させ、保証するために、またそ

れに違反した者(異端や謬説を説く者)を排除して教会を腐敗から守るために(戒

規)、教会政治が行われます。日本キリスト改革派教会では、この政治が行われるため

の基準として『教会規程』を保持し、それに従って教会統治を行っています。そして教

会には牧師(教師=宣教長老)と治会長老が立てられて、聖霊の導きと助けの中で会議

(小会)によって、教会全体の働きが決められ、実行されていきます。そこでの働き

は、教会の運営と維持という単に外面的な活動がなされていくだけではなく、真に教会

らしい内実である信仰的・霊的な事柄が取り扱われるのです。


2.教会の活動の根拠は「キリストの権能(統治権)」によること

 教会とはどのような所かと問われるなら、それは礼拝をささげたり、福音を伝道した

り、信仰の交わりをしたり、教育をする場所と答えることができると思います。そして

わたしたちは、そのことを「当然のこと」として実践しているわけですが、わたしたち

がそのように礼拝・伝道・教育・交わりといった様々な活動をしていることには、根拠

があるのです。かつて主イエスは、天に昇られる前に弟子たちを派遣してこう言われま

した。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、

すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりま

で、いつもあなたがたと共にいる」と(マタイ28章18~20節)。こうしてわたしたちが

当然のこととして実践している、伝道することや教育することは、教会の頭であられる

主イエスがわたしたちに命令されるから実践するのであって、それはわたしたちがした

いからすることではないし、できるときにやればよいものでもありません。どんなにと

きにも実践しなければならない事柄なのです。なぜならそのことをキリストはわたした

ちに命じておられるからです。教会は、このキリストの命令に基づいて、洗礼を授け、

教えを語っていくのです。教会がこの世で為すこれらの業、洗礼を授け、伝道し、教え

を宣べ伝えることは、キリストから命じられ託された働きであって、キリストご自身の

業を教会が代行する、つまりキリストの身体として、その頭の手足となってキリストの

代わりに働く業に他なりません。そしてその働きの根拠は、キリストご自身が父から与

えられた権能に基づくものなのでした。


 この権能とは、天と地の一切のものを支配し統治する権利(統治権)のことで、キリ

ストはそれを父からご自身の完全なへりくだりと服従のゆえに与えられたのでした

(フィリピ2章9~11節)。それが、キリストが「全能の父なる神の右に座し」と使徒

信条が告白することの内容であって、父なる神が持っておられる世界に対する支配権と

統治権を与えられて、キリストが代理者として執行するその「権能」です。そのキリス

トの権能が、頭から身体である教会に与えられたのでした。「キリストはすべての支配

や権威の頭です」(同2章10節)。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを

死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢

力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上

に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをす

べてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であ

り、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1章

20~23節、他コロサイ1章15~18節、1ペトロ3章22節、ヘブライ1章、詩2、 110編

など)。こうして「教会政治」の前提に、この「キリストの権能」があり、それが教会

に与えられたという信仰があるのです。


3.長老による会議によって治められる教会

 わたしたちの教会は、長老主義政治という形態で教会政治を行っています。この長老

主義政治は、教会役員が「長老」と呼ばれるからではなく、(教会役員が長老と呼ばれ

ていても長老主義政治ではない教会はたくさんあります。)複数の長老による会議の統

治形態を意味します。ですから複数の長老がいない群れは、まだ本来の長老会議(それ

を小会と言う)を形成することができないので、独立した教会とは認められず、伝道所

と呼びます。ここで「教会」とは、個別の一つ一つの群れや会衆のことではなく、複数

の長老による会議を構成できる複数の群れの集合体のことです。パウロの許にやって来

たエフェソの教会の長老たちは複数の長老でしたが、それは一つのエフェソ教会の長老

と言うよりは、エフェソ市内にある多数の群れや会衆を監督する長老たちであり、この

複数の家の教会をたばねてエフェソ教会と称しました。カルヴァンの牧会したジュネー

ブ教会も、ジュネーブ市内の全教会(会衆)の集合体を意味しました。そこにはジュ

ネーブ市内だけでも4つの会堂(会衆)があり、その周辺の村落にも多数の教会があり

ましたし、そこにそれぞれに牧師が立てられていました。しかしジュネーブ教会という

のはそれらの教会の全部を合わせた共同体で、それはそれぞれの会堂(会衆)で牧会し

ている牧師と共に、信徒を代表して議会から選出された長老が集まる会議によって統治

されていました。


 このように長老主義の理念では、個別に集まっている各個教会、個別の群れが教会で

あると共に、それらの集合体であり、その各個の群れから出された長老の会議によって

統治される全体を「教会」と理解します。私たちの日本キリスト改革派教会では、その

集合体を「中会」と言い、各個教会におかれた長老会議を「小会」、さらには複数の中

会が集まって全体の教会のための討議をする長老会議を「大会」と言っています。長老

主義政治においては、「中会」が教会であり、むしろ各個の群れは、この「中会」とい

う大きな教会を構成する一肢体と理解されます。現実にはこの「中会」が一堂に会して

集うことが困難ですから、通常の礼拝においては各個教会として集います。しかしそれ

は各個教会が主体なのではなくて、中会が主体なのです。一つの体は多様な肢体によっ

て構成されるように、中会も多様な個性と伝統を持った各個教会によって構成されます

し、その各個教会の多様性や自主性が否定されるものではありません。しかしそれは各

個教会がそれぞれ勝手ばらばらに何をしても良いということではなくて、体の肢体が頭

の統制に従うように、中会という中枢によって統制され監督されていきます。その点で

各個教会主義(会衆主義)ではありません。しかしまた同時に上意下達というように上

からの一方的な統制に服するのではなく、どこまでも各個教会の主体性と主権が確保さ

れますから監督主義でもないのです。むしろその各個教会が会議という形態で相互に監

督し合うのが長老主義です。全国にある改革派教会の団体名が日本キリスト改革派「教

団」ではなくて日本キリスト改革派「教会」となっている点が大切です。この教会は、

各個教会を寄せ集めた合同教会ではなくて、その全体が「一つの教会」であるという理

念を持っているからです。しかし具体的には各地に点在し独自の形成をしている各個教

会をどこで一つにしているかというと、中会という長老会議によってなのです。こうし

て信仰告白で一つに結ばれた教会は、「大-中-小」という階層性をもった教会会議

(長老会議)によって、組織においても「一つの教会」とされていくのです。しかも各

個の群れの主体性が「小会」という長老会議によって確保されながら、それが一人よが

りになったり勝手気侭に形成されることがないように、「教理と生活」における「一つ

性」を維持していくために、段階制を持つ長老会議によって相互監督していくのです。

このような教会政治を「長老主義政治」と言うのです。


4.小会の働き

 こうしてわたしたちの教会は、「長老主義政治」で教会政治を行っており、それは

「大-中-小」という階層性をもった教会会議(長老会議)によって「一つの教会」と

されています。しかし「大会」とか「中会」と言われてもピンとこないのが正直なとこ

ろで、皆さんにとって具体的なのは、各個教会における長老会議、つまり「小会」で

す。ここでは、この「小会」が、どのようなことをするのかを考えていきます。この小

会という長老会議が行う重要な務め、つまりこの会議に与えられた権能とは、教会をキ

リストの教会として形成し、群れを守るということです。そしてそれは具体的には、礼

拝と集会を主催し、教会内の教理を守り、つまり説教が真に聖書的であるか否かを吟味

し、説教の結ぶ実を監督するということです。そのために教会員の霊的状態を常に監督

し、指導をしていきます。信仰の弱っている者を励まし、行状の悪い者を叱責して、そ

の個々人の信仰的成長と共に、教会全体の成長を監督していきます。そしてそのために

必要な教育計画を立てて実施し、会堂や施設の営繕管理を行い、伝道活動を推進してい

きます。しかしその指導に服さず、群れの純潔と平和を乱す者は「戒規」を実施し、ま

た教会員にふさわしいと判断した方を教会に入会させます。これらの活動の中心にある

ことは、キリストより委託された「霊的権能」の行使、すなわち「天国の鍵」の行使で

す。マタイ18章で主は、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あな

たがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)と宣言されました。またペト

ロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたときに、「わたしはこの岩の上に

わたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵

を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くこ

とは、天上でも解かれる」と約束されました(16章18、19節)。キリストはご自身の教

会に「天の国の鍵」を与えられたのですが、それは天の国の扉を開けたり閉めたりする

鍵のことで、教会には誰が天の国に入り、誰が入れないかを見極め、吟味するところの

権威が与えられたのです。これを見える形で現わすのが、「戒規」でした。ですから教

会は誰を教会員として入会させ、そこから除名するかの権威をキリストご自身から与え

られていると信じています。


 それはこの世にある様々な集団や共同体の入会や除名とは本質的に違うもので、その

団体の都合や恣意によって為されるものではなく、その権威を頭であるキリストご自身

から与えられているということです。ただ同時にそれを決定する教会自身も、弱い罪人

の集まりですから、判断を誤りうることがあり、ふさわしくない人を受け入れたり、逆

に受け入れるべき人を追放したりしてしまいます。そこで絶えず教会を導かれる聖霊の

助けと導きを祈り求め続けなければなりません。それが、教会に与えられた「キリスト

の権能」でした。ですから教会行事の計画であるとか、集会の準備であるとか、会堂の

整備であるといった事柄は、大切なことではありますが、どこまでも第二義的なもので

あって、あくまでも「天国の鍵」である「霊的権能」が正しく行使されるための手段・

方法にすぎません。各個教会の長老会議(小会)が、この本質的な事柄を見失うことな

く、健全な教会形成をしていくことができるように、教会員となられたみなさん一人一

人が、そのために祈り、そして協力していただきたいと願います。この教会に入会する

にあたり、皆さんが誓約された言葉は、この小会の牧会と霊的指導に服していただき、

共に教会の純潔と平和の維持のために力を合わせることだったということを覚え続けて

いただきたいと思います。


5.「改革された教会は、常に改革され続ける」という教会-改革派教会の本質

 稲毛海岸教会は、「日本キリスト改革派教会」という教会に所属しています。この

「改革派教会」とは、そもそもどのような教会なのでしょうか。「改革派」とは「聖書

において改革された教会であり、また改革され続けていく教会」という意味で、人間的

な伝統や、人間的な交わりに主眼が置かれるのではなく、ことのほか聖書の上に堅く立

つことを重視する教会です。それは「改革された教会は、常に改革され続ける」という

有名な標語にまとめることができます。しかしここで「改革し続ける」というとき、そ

れでは何を基準にしての改革かが問われます。それは、それぞれの教会がおかれた時代

に合わせ、その時代の要求に応え、また時代に迎合することが「改革」なのでしょう

か。いいえ、決して!ここで「改革」と言われているとき、その基準はどこまでも「聖

書に啓示された神の御言葉」です。そしてここに改革派教会の特色が出てきます。つま

り「最も聖書的であろうとした教会」が改革派教会なのでした。もちろん少なくともプ

ロテスタント(福音主義)信仰に立つ限り、どの教会・教派も「聖書的」であろうとし

ているわけで、それを否定する教会はありません。そしてそれぞれに自分たちこそ「最

も聖書的である」と確信してそれぞれの教会を形成しています。改革派教会もその点で

は同じですが、同時にその「聖書的である」ことを確保し、検証する機能をも保持しよ

うとするところに、その特色があるわけです。それが「信仰基準」であり、長老主義政

治を保持するための「政治規準」であり、教会の信仰と純潔を実際に維持していくため

の「戒規(教会訓練)」と「礼拝指針」、つまり「教会憲法」なのです。そこでは「見

えない教会」での一致や聖書性を、単に理想的に唱えようとするのではなくて、それを

「見える教会」において何とか実現し、近づけていこうと努力をしているのです。こう

して改革派教会は、「教会が聖書的である」ということを、具体的にまた現実的に具現

化しようとしているのですが、その手段こそ、長老主義政治という教会政治システムで

あり、それを成り立たせ、また制度的に保証するものが「日本キリスト改革派教会憲

法」なのでした。日本キリスト改革派教会は、この『憲法』に従って、より聖書的な教

会へと自己形成していくことを表明し、またその努力をすることで「改革し続ける教

会」として歩み続けている教会なのです。そして改革派・長老派の信仰の伝統に立つ

『ウェストミンスター信仰規準』を最も聖書的な教理の体系として、教会の信仰規準に

採用し、それに基づく聖書の教理を語り、またその教理に基づいて教会を形成すると共

に、『教会規程(政治基準・訓練規定・礼拝指針)』に従って、より聖書的な統治方法

(長老主義政治)によって礼拝と信仰生活を訓練していくことで、教会を組織し、秩序

立てていくのです。ですからこの教会では、教会員が選んだ長老と牧師による長老制に

よる教会政治が行われています。このことを、日本キリスト改革派教会では、「一つ信

仰告白、一つ教会政治、一つ善き生活」(創立宣言)という言葉で言い表してきまし

た。


 教会は「キリストの体」です。その体である「教会を造り上げ聖なる者たちを整える

ため」に、教会の頭であられる方(キリスト)は、「役員」をお立てになりました。そ

して「御言葉と聖霊によって教会に臨在され」る主は、「人の奉仕を用いて、教会を治

め教えられ」ていかれ、そのために、「教理、政治、訓練、礼拝の大綱」を定められま

した。そしてこれらの大綱として、『日本キリスト改革派教会憲法』がまとめられまし

た。それは、「教理(信仰内容)」のために『信仰規準』、「政治」のために『政治規

準』、「訓練」のために『訓練規定』、「礼拝」のために『礼拝指針』が定められたと

いうことで、『日本キリスト改革派教会憲法』は、『信仰規準』と『教会規程』の二部

から成っています。そして『信仰規準』は、前文つきの『ウェストミンスター信仰告

白』『大教理問答書』『小教理問答書』から成る、教会の信仰内容の規準であり、『教

会規程』は、『政治規準』『訓練規定』『礼拝指針』から成る、教会の政治・戒規・礼

拝といった運営のための規準・指針となっているのです。


               ①(前文つき)『ウェストミンスター信仰告白』

*『信仰規準』 「教理」の大綱 ②『大教理問答書』

               ③『小教理問答書』

『日本キリスト改革派教会憲法』

       「政治」の大綱 ①『政治規準』

*『教会規程』 「訓練」の大綱 ②『訓練規定』

       「礼拝」の大綱 ③『礼拝指針』