第6講 悪への傾きと善への無能

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第6講 悪への傾きと善への無能(問7~8)


問8 それでは、どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているとい

うほどに、わたしたちは堕落しているのですか。


 そうです。わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。


1.堕落がもたらした本性-悪への傾き・善に対する無能と腐敗した本性

 a.罪への傾き

 このように人間が堕落してしまったのは、どこから来たかとの問いに、「わたしたち

の始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです」と問答は答えます(問

7)。神は人間を善いものとして創造されたので、「邪悪で倒錯したもの」に造られた

のではないとすれば(問6)、それではそれはどこから来たか、それはアダムからだと

いうのです。人類の始祖がそれをもたらしたのです。「一人の人によって罪が世に入

り、全ての人が罪を犯した」(ローマ5章12節)。そしてこのようにわたしたちの先祖が

堕落してしまったことからもたらされたのは、悪への「傾き」でした。わたしたちは悪

に傾く心の傾斜をもっているというのです。傾いた板の上に球を乗せれば、必ず傾いた

方に球が転がり落ちるように、わたしたちはどれほど抵抗しても、必ず悪の方にずるず

る落ちていき、罪の方に向かってしまうのです。ちょうど「蟻地獄」のように、そこに

はまり込んだら最後、もがいてももがいても抜け出せないばかりか、ますます深みには

まり遂に死に至る。それが堕落した人間の姿だというのです。善を行なう努力はするの

ですが、結局は悪へとはまり込んでしまう、そんな人間の姿をパウロはローマ書7章で

語っています。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行

せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは自分の内には、つまりわたし

の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあります

が、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行

なっている。わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と。


 b.罪の支配-腐敗した本性をもち、善に対して全く無能

 しかしそれだけではなく、わたしたちは「どのような善に対しても全く無能」だと

言われます。いくら何でもそれは、ひどいではないかと思うでしょう。まるでわたした

ちには、善のひとかけらもないかのような言い方で、わたしたちは善を全く行っていな

いと言っているようだからです。しかし「わたしたちは自分のどこをとっても、罪から

自由なところはありません」と明言します。これは一体どういうことでしょうか。これ

はわたしたちの生活のどの部分も、罪の影響を受けて腐敗しており、また罪の支配の許

に置かれているということです。それは単にわたしたちが悪しき行いをするということ

だけではなく、わたしたちの生活と生き方そのものが罪に満ちているということであ

り、行動だけではなく言葉と思いの源であるわたしたちの心そのものが罪に満ちてお

り、また罪に汚染されているということです。外面的な行いであれ、内面的な思いであ

れ、わたしたちの生活と一切の行動の根源である心そのものが罪の支配を受けていて、

罪から自由にされていない、罪に捕らわれてしまっている、だからその心から生み出さ

れるものはすべて罪深いものとなってしまうのです。たとえそれが人に対する善意や

愛、親切であっても、それさえ罪に腐敗したままのものにすぎず、罪深く、神に喜ばれ

受け入れられるものとはならないのです。鯛は鯛でも、腐った鯛は食べられません。

腐ったりんごも、腐った部分は食べられないのです。そのようにわたしたちの心は、罪

によって腐敗しているため、ある部分は腐敗の程度が軽く、別の部分は重いという程度

の差はあったとしても、腐っていることに変わりはなく、腐敗した部分からは腐敗した

ものしか生み出されないのです。聖書はこのようにわたしたちが、罪の腐敗からまぬが

れた部分がどこもないほどに全面的に腐敗しきっていると語ります。腐った心からは

腐った業しか生み出されないのです。


 神が求められる「善」とは、人間の都合や考えでどうにでもなる相対的な善のことで

はなく、全く聖い神が基準となり、神が求められる絶対的な善です。その神の善とは、

神の御心であり、それは律法に表されました。その中心は、二つの愛の戒め、つまり

「神を愛し、隣人を愛する」こと、これが善です。この善の基準、愛の基準は、神の求

められる高さが基準です。山の頂上に立つ人は、ふもとにいる人よりも高いです。下か

ら見上げるとそれはすごく高い所にいて、あの人は素晴らしいと思われるでしょう。そ

の人自身も上から下を見下ろして、自分はずいぶん高いところまで到達したと自負する

でしょう。しかし飛行機の上から見おろせば、ふもとにいる人も山頂にいる人もどちら

も同じ高さにしか見えません。人間の道徳的高さ、高潔さ、完全性も同じです。完全な

神から見られたとき、人間はすべて全く不完全で、神の求められる善の基準、愛の高さ

にはとうてい到達していないばかりか、それには及びもつかないのです。しかしわたし

たち人間は、その中心である心そのものが罪によって腐敗してしまっているため、そこ

から生み出されるものはすべて腐ったもの、罪(自己中心)という不純物が混入した不

純なものでしかないというのが、聖書の教えです。このことは抽象的・一般的に考える

のではなく、具体的に考えてください。自分の隣人や家族との関わりにおいて、自分は

どのように人を愛し、人に仕えているかを具体的に考えていくなら、他人はどうあれ自

分については、この聖書の教えを認めざるを得ないはずです。親が子を愛し、子のため

にあらゆることをするというとき、そこにやはり親の自己中心的な願望や歪んだ期待と

いったものから完全に自由だと言えるでしょうか。夫婦や恋人が相手を愛するというと

き、相手への愛の中に純粋に相手そのものを愛する愛があるでしょうか。むしろ自分の

願望や期待、理想を相手にぶつけ、それを要求するのであり、つまり自分を愛している

ことの方が大きいのではないでしょうか。このように「わたしたちは自分のどこをとっ

ても、罪から自由なところは一つもなく、腐り果てています。そして神の御霊によって

再生されないかぎり、わたしたちは罪の支配の下に生きているのです」。


 c.堕落の結果と影響-原罪と現行罪

 こうして、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」(創世記8章21節)というこ

とになり、ダビデが「わたしは咎のうちに産み落され、母がわたしをみごもったとき

も、わたしは罪のうちにあった」(詩51編7節)と語るとおり、人間は生れながらに

「罪人」として、罪を持つ者として産まれて来る者となってしまいました。無垢な人間

は一人もいません。このように人間の心そのものが、その根源から全面的に腐敗してし

まっていること、つまり最初から罪へと傾斜していることを「原罪」と言います。わた

したちは生れながらにこの「原罪」、つまり「心の全面的腐敗と罪への傾斜」を持って

いるため、必然的に罪を犯すのです。腐った鯛やりんごからは、腐敗臭が漂います。罪

に腐敗した心からは腐敗した行動と思いが生み出されるだけなのです。普通に言われる

罪は、表面に現われた罪、実際に犯された罪(現行罪)、それも行いにおける罪が考え

られますが、聖書は心の中で犯される罪、思いにおける罪、内面的な罪もまた「現行

罪」なのであり、この外面的・内面的な罪、行いと思いにおける罪の両方が、実は原

罪、罪に腐敗した心そのものから生み出されると教えるのです。主イエスは言われまし

た。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが

出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ね

たみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのであ

る」(マルコ7章20~23節)。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこ

そ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て

来るからである。これが人を汚す」(マタイ15章18~20節)と。


 そしてこの腐った心から、罪と悪の実りが結ばれていくのです。「悪い実を結ぶ良い

木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分

かる。・・・善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いもの

を入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」

(ルカ6章43~45節)。「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言え

ようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。・・・言っておく

が、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われ

る。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とさ

れる」(マタイ12章33~37節)。このようにわたしたちは、神が求められる善、完全な

愛において、全く見込みがありません。わたしたちの行いと思いの中心である心そのも

のが罪によって腐っているからです。わたしたちが「神の霊によって再生されないか

ぎり」この状態なのです。


3.聖霊による再生(新しい生まれ変わり)の希望

 ですからそこから「再生」の必要が語られるのです。「再生」とは「新しく生まれ変

わる」ことです。心そのものが新しくなり、それによって生き方を新しくやり直すとい

うことです。これ以外に方法はありません。しかしそれをすることができるように、神

は新しく生まれる方法を用意してくださったのです。神の御霊によって再生されること

です。堕落の極みにおいて、人間の救いの可能性が、新しい生の希望が語られてくるの

です。人間は「神の像」に造られましたが、この神の像は堕落によっても失われません

でした。堕落して人間は、神の像を失ったのではなく、悪魔になったわけではない、堕

落しても人間は人間なのです。天使は堕落して悪魔になりましたが、人間は堕落しても

人間でありえた、神の像をもっているからです。しかしこの神の像は、無くなりません

でしたがだめなものになってしまった。だから人間は愛するけれども、その愛は完全な

愛ではないのです。そしてこの不完全の愛から、実はその反対の姿が生み出されてく

る。そこに人間の悲惨があるのです。しかしそこでこそ人間は救われていくのです。

「御子は見えない神の姿」(コロサイ1章15節)、つまり神の像とあります。今や主イエ

スこそまことの神の像であられます。主イエスは徹底的にこの神の像の生き方をなされ

ました。地上にあって神を愛し、隣人を愛しぬく生き方を貫いてくださったのです。わ

たしたちもこの方を通して、神の像を回復していただくのです。「わたしたちは皆、顔

の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同

じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3

章18節)。それをわたしたちの内に実現するのが、聖霊です。御霊によって再生される

人間とは、神によって創造された最初の人間の姿です。「人が自らの造り主なる神をた

だしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い

賛美する」、これが神が造られたときの本来の人間でした。そしてわたしたちは、聖霊

によって、この本来の生き方へと導かれ、歩み始めていくことになるのです。「キリス

トは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御

自身のかたちへと、生まれ変わらせてもくださる」のです(問86)。そして聖霊の恵

みによって、「わたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第

次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆく」のでした(問115)。こうしてわ

たしたちは、まことの神の像イエス・キリストによって、聖霊の働きのゆえに、この罪

の体から救いだされていく救いの希望のうちに、今生かされています。神はわたしたち

に、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしの

霊をお前たちの中におき、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行なわせ

る」(エゼキエル36章26~27節)と約束してくださいました。そこでわたしたちは、

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩51編12

節)と祈り求めていきたいと思います。