第5講 完全な愛の要求

第5講 愛ー人間の本来の基準

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(旧約聖書)は、この二つの掟に基づいている」

マタイ223740

1.律法-自分の本当の惨めな姿を知る鏡
 どこかに外出される時は、いちおう鏡で自分の姿や顔を確認してから出掛けられると思います。わたしたちは自分自身の顔を直接、自分の目で見ることができません。せいぜい鼻の頭を見ることができるくらいです。自分の顔を見るためには、「鏡」が必要です。鏡によって初めて自分の顔や姿を見ることができます。実はわたしたちの心も同じです。わたし私たちの本当の姿、心の有様は、自分が自分を理解し、知っていると考えているほど単純なものではありません。それは鏡も見ずに、見当で化粧をするようなもので、それは悲惨な結果をもたらすことでしょう!わたしたちは、自分の本当の姿、赤裸々な心の状態を知るためには、自分の姿を映しだす「鏡」が必要です。そしてその自分の本当の姿を写し出す鏡こそ、聖書であり、その中の特に「律法」と言われる神の戒めです。それはわたしたち人間が本来あるべき基準を指し示したものです。

 よく遊園地にミラーハウスのような施設があります。様々な種類の鏡があって、それによっていろいろな自分の姿を見ることができます。くねくね曲がった姿、ほっそりと伸びた姿、寸胴に縮んだ姿と実に興味深いです。しかしなぜそのように写るのでしょうか。鏡が歪んでいるからです。鏡が歪んでいることを知らずに、そこに写った姿を自分の本当の姿と錯覚するなら、悲劇です。自分の姿を知るためには、鏡が必要ですが、その鏡が歪んでいたら、元も子もありません。わたしたちの周りには、実に多くのわたしたちを惑わす歪んだ鏡で満ちています。受験生であれば偏差値という歪んだ鏡があり、それだけを見ればどんなに優秀で優れていても、実は冷酷で非人間的という別の面が写し出されることがありません。美貌、学歴、地位、身分、才能等々、この世にはありとあらゆる歪んだ鏡があって、多くの人はその歪んだ鏡を見て、自分にうっとりし、自分は大したものだと考えるのです。ですからわたしたちが本当の自分の心の姿を知るためには、歪んでいない正しい鏡が必要です。それが「律法」なのです。たとえば今いる部屋を真っ暗にして、まっすぐに歩いて見てください。自分はまっすぐに歩いているつもりでも、たいてい右か左に曲がってしまいます。律法とは、わたしたちが目分量とか見当でまっすぐに歩くのではなく、正しく正確にまっすぐに歩くために与えられた基準でした。正しく生きるための目安、基準、標準、それが律法なのです。正しく生きること、本来の人間らしい生き方の標準、その最低ライン、それが律法です。

2.愛ー人間の本来のあるべき基準としての律法
 最初に創造された人間は、この神の律法に完全に服従することで、完全な義に至ることができました。それでは、そこで神が人間に求められた「義」、つまり人間本来のあり方とは何でしょうか。それが律法が要求することですが、律法が指し示す「義」とは何でしょうか。主イエスは、「律法の中で、どの掟が最も重要」かを問われ、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(旧約聖書のこと)は、この二つの掟に基づいている」と言われました(マタイ223740節)。人間本来の生き方、あり方を示したのが「律法」で、その中心が「十戒」ですが、主イエスはそれを「二つの愛の戒め」にまとめられました。神を愛し、隣人を愛すること、この二つが人間に求められる「義」、それが人間本来の生き方だと。

 しかしそれはさらに一つの愛の戒めにまとめられます。「互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟であっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするものです」(ローマ書13章8-10節)。また「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」とあります(ガラテヤ書5章14節)。主イエスご自身、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ133435節)と言われました。この教えを受けた弟子のヨハネは、「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教え」で、「その掟とは、互いに愛し合うこと」だと語りました(1ヨハネ3章1123)。そして「互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。これが、神から受けた掟です」と勧めるのでした(ヨハネ4章7-21節)。

 このように、神が人間に求められる「義」、「律法」が要求する人間本来のあり方とは、「互いに愛する」ことなのでした。律法とは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないといった禁止条項の固まりなのではなく、その本質は「愛する」ということなのです。神がわたしたちの求めておられる生き方、在り方とは、「あなたは真実に愛しているか」ということなのです。
3.完全に徹底的に愛し抜くことを要求する愛の戒め
 それなら大丈夫だとあなたは言われるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。ここで求められている愛は、まあまあ愛していれば良いとか、ある程度の愛で許されるといったものではなく、徹底した愛、完全な愛が求められているということです。まず第一に、神への愛が求められます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということは、半端な愛し方ではありません。片手間で、思い出した時に愛を確認するといったものではなく、徹頭徹尾神を愛し、神を第一とし、神のためには生命さえ惜しまず捧げて捨てるほどに神を愛するということです。神の御心を中心にして、神の願うように望まれるままに生きるということ、つまり己れの我欲を捨て切り、徹底的に「神中心」に生きるということです。

 しかもそれだけではなく、「神の像」に似せて創造された「隣人を自分と同じように愛する」ことも求められます。それではこの「隣人」とは誰か、主イエスは答えられました。単に自分の周りや隣にいる人のことだけではなく、ましてや自分によくしてくれる人のことだけでもない、あなたの敵も隣人であると(マタイ5章4348節)。あなたの気に入らない、あなたを憎み、敵対する人であると(ルカ112737節)。さらにはあなたにとって価値なく意味のない人であると(マタイ253440節)。そのような自分の敵や「小さな者」を愛することが、ここで求められているばかりか、神を真実に愛することはこのような人々を愛することによって具体化され、実現し、成就するとさえ言われます(ローマ13章8-10節)。逆に隣人を愛さず、依然として憎むことは、神を憎むことになります(第一ヨハネ4章20節)。ここでは徹底的な隣人に対する愛が要求されているのです。それは生半可な「愛」ではなく、自分自身を捨てることを求められるほどに厳しい愛です。