第2講 摂理の神を信じる

わたしは信じる-『使徒信条』によるキリスト教信仰の学び

 第2講:摂理の神を信じる(問27~28)


問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。


 全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわ

ばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日

照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべ

てが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるので

す。


問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けます

か。


 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については、

わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物も、この方の愛からわたし

たちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あ

らゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動くことも動か

されることもできないからです。


1.摂理の神に対する信頼

 『ハイデルベルク信仰問答』問26では、「『われは天地の造り主、全能の父なる神

を信ず』と唱える時、あなたは何を信じているのですか」という問いに、「天と地と

その中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とに

よって、今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父

が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということで

す。わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべて

を、わたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間(悩み多い生涯)へ、

いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださること

を、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおでき

になるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」と答えました。

そこではまず、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という箇条において、

何を信じているか」と問われました。それは、神を世界の創造者、支配者として知っ

たとしても、それがただの「知識」にすぎないのであれば、この箇条を信じたというこ

とにはならないからです。わたしを在らしめてくださった方が、今もなおわたしを存続

させつづけ、しかも確かに「わたしの父」として、一切を「わたしのために」為さって

くださるばかりか、すべてをわたしの最善を目指して為していってくださるということ

を信じ、信頼していくということこそ、この箇条を告白することだからです。「天にい

ますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わた

しを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです」と問1

で告白したように、この力ある「全能の神」が、わたしにとっての「真実な父」であら

れるということを信じ、心からこの方に信頼していくことが、この箇条を信じることな

のです。


 こうしてわたしたちは、世界の創造主、支配者でありたもう、全能の神を「わたしの

真実な父」としていただきながら、この方の愛と慈しみと守りのうちに、御手のうちに

あって支えられているのです。神をわたしたちの父として信じる信仰は、わたしたちの

神が、わたしたちの父として、この世界に起こるすべてのことを支配しておられるばか

りか、それをわたしのために配慮し、導いていてくださり、わたしのうちに起こり来る

すべてのことで、偶然に起きたり、神のあずかり知らないところで起こることは何一つ

なく、たとえどんなにつらく、悲しい出来事であっても、それらはすべてわたしの「幸

い」を目指して、父親らしい慈しみから、全能の御手を動かしてわたしにもたらされる

ものであると信じさせていきます。それはローマ8章28節で明らかなように、神は天地

の全てを支配なさり、その全てを用いてわたしたちのために益をお与えくださるという

ことであり、そのために働かれる神の業、神の全能の御手への信仰に導きます。そし

て、この神の全能のご支配は、父親らしい御手によってなされ、決して気まぐれや偶然

によるものではないのです。摂理とは「前もって見る」「見通し」から派生し、先を見

越していること、見通しがあることを意味します。先行きが分からない、見通しのない

ものではないのです。神の支配は、筋道が通っていて、先の先まで見越した中での支配

であり、その上でわたしたちのために最善を果たしてくださるのです。


 しかもそれはとても具体的なものです。ここであげられているものは、当時切実な現

実問題、ごく日常的な、しかも切羽詰まったものです。その現実の一つ一つを「すべて

が偶然によることなく」神の御手からもたらされたものとして受け取るのです。わたし

たちの信仰は、この弱い肉体を持った、この世の中で営まれるものです。摂理の神を信

じる信仰は、この具体的な日々の生活の中で問われるものなのです。そして問28ではそ

の利益が問われているように、神の恵み、祝福は具体的で、一つ一つ数え上げることが

できるものなのです。ところが一つ一つ数えていくうちに、どうしてもこれは神の恵み

ではない、祝福ではないと思えるものが出てきます。不幸、災難、災いに見舞われたと

き、それを神からのものと考えることができないで、それは偶然から来た、運命だった

と考えるのです。しかしそこで信仰問答は告白するのです。それらは偶然から来たので

はなく、わたしたちは運命に支配されているのでもないと。運命や偶然には一貫性があ

りません。行き当たりばったりで、見通しがないのです。それと全く相反するのが、神

の「摂理」です。ひでりも不作も病も全ては偶然からではなく、神から来たとするので

す。わたしたちは運命にもてあそばれているのではなく、神の父親らしい慈愛の配慮の

中で為された、恵みの支配の御手に置かれているのです。人生に起こり来るものの全て

は、それが幸いであれ不幸であれ、偶然ではなく、神からもたらされたもの、しかも神

はそれらの全てをもって、わたしたちの益としてくださり、わたしたちの幸いを目指し

てそれらを導き、与えられるのです。神の全能は、神の父であることにおいて働かれる

のです。ですからこの全能の神と、神の御手の働きを信じる者の歩みは、とても力強い

歩みとなるはずです。「摂理」の神を信じる信仰はわたしたちをダイナミックな生き方

へと導いていくのです。「逆境においては忍耐強く」歩ませるものとなるのです。


2.逆境の中で見通しを与える信仰

 この神の「摂理」を信じるとき、わたしは順境にあっては、感謝することができるだ

けではなく、逆境の中でも、神を信頼して忍耐強く歩み、希望をもって生きていくこと

ができるのです。なぜならこの世の一切は、この方の御手の中におかれ、御心によらず

に起こることは、何一つないからです。そしてわたしたちは、この全能にしてわたしの

父である神を信頼して、希望を持って生きていくことができるようになるのです。当時

は人文主義の時代であり、運命に対する信仰が流行した時代でもありました。しかしそ

れに対して、信仰問答は「摂理」の神への信仰を告白することで、運命的人生観と対決

したのです。今日わたしたちも、いつの間にかこの運命的人生観に縛られていたり、あ

るいは日本的な因習に囲まれ、呪縛されています。先祖のたたりであるとか、バチがあ

たったとかいうものに囲まれ縛られながら生活してもいます。しかし「摂理」の信仰

は、そういった呪縛するものからわたしたちを解放し、自由を与えるものです。まこと

の信仰のゆえに迫害を受け、拷問され、殺された時代、そこでまことの信仰者たちを支

えたのは、この「摂理」の神に対する信仰でした。この信仰問答は、そのような困難な

時代に生きる信仰者たちに、「すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によっ

」もたらされることを告白し、いよいよ神とその「摂理」の業への信仰に生きるよう

に、励ましたのでした。わたしたちも、万事を、そうです、全ての事柄を、たとえそれ

が人間の罪であっても、悪であったとしても、それをさえわたしたちの益に変え、用い

ることのできる、わたしたちの父なる神への信仰に歩んでいきたいと願います。「神を

愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に

働くということを、わたしたちは知っています。」この信仰に生きる中でこそ、わたし

たちの人生は見通しのある、先行きのはっきりした一貫したものとなっていくのです。


3.御名をたたえる賛美の歌声へと

 このように、「神の摂理の業とは、全ての被造物に対する神の最もきよい、賢い、力

強い保持と統治」(『ウェストミンスター大教理問答』、問18)です。『ウェストミン

スター信仰告白』では、「万物の偉大な創造主である神は、すべての被造物、行為、ま

た事物を、大小もらさず、最も賢い、きよい摂理によって、無謬の予知と、御自身の御

旨の自由不変のご計画に従って、その知恵と力と義と善と憐れみのご栄光の賛美へと、

保持し、指導し、処理し、統治される」と告白されます(第5章「摂理について」1

節)。ここで、「保持」とは、被造物の存在を存続しつづけるように保たれること、

「統治」とは「全被造物とその全行動を、ご自身の栄光のために秩序づける」ことで

す。また「指導し、処理し」とは、それらをもっと詳しく説明したもので、「指導」と

は「被造物の行動や出来事を、神の目的とする方向に向けること」であり、「処理」と

は「個々の行動や出来事を配剤し、配列し、配置して所期の結果を生じるようにするこ

と」です。このように神の「摂理」とは、「神が天上から何ら為すことなく世界に起こ

ることを眺めておられる、ということではなくて、あたかも船長が舵を取るように、全

ての出来事を統御しておられる、ということを言う」のです(「綱要」I.16.4)。

そしてその目的は、「ご栄光の賛美」なのでした。


 とりわけ「摂理」の特別な対象は、神の民であり、教会です。「神の摂理は、一般に

全ての被造物に及ぶと共に、最も特別な方法で、神の教会のために配慮し、万事をその

益となるように処理する」からです。摂理の御業は、創造の完成を目指して、この世界

の維持と存続のためだけではなく、再創造(救い)の御業として力強く為されており、

その働きのゆえに、神の民が集められ、この神を父とし、この父の子とされた恵みを喜

び、感謝し、賛美する者とするために、今も働きかけられています。それはこの摂理の

神を信じ、従い、喜び、賛美するためでした。そしてこの摂理の神への信仰こそが、困

難と試練のとき、キリスト者を支え、励まし、強める信仰です。如何なる出来事にも、

偶然や運命がないこと、この神が「父としての配慮と愛」から一切を為されること、そ

のことを信じるとき、わたしたちの信仰は、その小さな炎をかきたてられ、神への信頼

と賛美へと向けられていくのです。この全能の神が、わたしの父として、全宇宙の秩序

の維持や、歴史に起こり来る一切の事柄だけではなく、この小さなわたしのいとも短い

人生の一こま一こまをも熟知しておられ、関心を持ち、支えてくださって、わたしたち

の髪の毛一本すらこの方によって数えられている、髪の毛一本一本に刻まれたわたした

ちの人生の労苦の一切を知っておられ、導いておられることを信じることが出来るので

す。だから、「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来

については、わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物も、この方の

愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる」のです。