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7月30日(ルカ12章1-3節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ12章1~3節 隠されたものは明らかに〕

 そうこうするうちに、おびただしい群衆が一か所に集められて、互いに足を踏みつけているときに、彼は初めに彼の弟子たちに向かって言い始めました。「あなたがたは自分自身、パン種に気をつけなさい。それはファリサイ派の偽善です。覆い隠されているもので、覆いを取り除かれない〔現されない〕ものは何一つなく、隠れたもので知られないものも(ありません)。そのゆえに暗闇の中であなたがたが言ったことは何事でも、光の中で(人々に)聞かれるでしょう。」

*(  )は原文にないが理解しやすくするために補った言葉。〔 〕は別の訳。

 

 主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種」に気をつけるように繰り返し注意されます。そしてそのパン種とは「偽善」であるということも。偽善とは、役者が劇で役を演じるためにかぶった仮面に由来する言葉で、仮面、つまり見える部分とその人の実体とは違いがあることを明らかにします。ファリサイ派の人々は、額に載せる聖句の小箱をより大きくしたり、衣の房をより大きくしたり、人よりも長い祈りをして、いかにも信仰深く、敬虔そうに振る舞いますが、その内実は「強欲と悪意」で満ちていると主イエスは喝破します。それをパン種に譬えたのは、パン種はごく少量でパン生地に働きかけ、全体を膨らませて大きくしていきます。しかも発酵という作用によって全体を内側から変質させていきます。ファリサイ派の人々の「偽善」は、まさにそれと同じだと言われるのです。もちろんこのことはわたしたちにも問いかけられていることです。外側に見える態度や振る舞い、見える奉仕や信仰への熱心が、その人の信仰そのものを現すわけではありません。そうした見える部分には熱心で信仰深そうに見せても、その内側にある偽善はいずれ露見し、暴露されることになります。「覆い隠されているもので、覆いを取り除かれないものは何一つなく、隠れたもので知られないものもありません。」人に見えるものを意識するのではなく、神に見られるものを意識して、「神の御前」で誠実に信仰を歩んでいきたいと願います。