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10月4日(ルカ8章9〜10、16~18節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ8章9、101618節 どう聞くべきに注意〕

 さて彼(イエス)の弟子たちは、彼に熱心に尋ねました。「この譬はどんな(意味)ですか。」そこで彼は言いました。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されています。しかし他の人々には譬によって(語られます)。それは、『彼らは見るけれども見ず、聞いているけれども理解しない』からです。」

 ところで、誰も灯火をともしてから、それを容器で隠したり、あるいはベッドの下に置く人はいません。むしろ燭台の上に置きます。それは入ってくる人々がその光を見るためです。覆われているもので明らかにされないものはありません。また隠されているもので、知られないものはありません。それは明らかに知られるようになります。

 ですから、あなたがたはどのように聞いているかを見て〔注意して〕いなさい。誰でも、その人が持っているものは、その人に与えられるでしょう。しかし、持っていないなら、持っていると考えているものも、その人から取り上げられるでしょう。

*( )は説明のために付加した言葉で原文にはない。〔 〕はもう一つ別の訳。

 

 主イエスの言葉を聞く人たちはここで二種類に分けられます。一方は表面的な意味で満足し、それ以上の意味を深く悟ろうとはしない人々、そしてもう一方は弟子たちのように「この譬はどんな意味ですか」と問い尋ねて、さらにもっとその奥義を知ろうと求める人々です。そして奥義を知ろうと求める人々に対して、「神の国の奥義を知る」ことが許されるのです。灯火をつけてから、それを覆い隠したりする人はおらず、むしろ燭台の上に置いてあたりが明々と照らされるようにします。そのように主イエスの譬も、意味を覆い隠すために語られるのではなく、その意味を尋ね求める人には明らかにされるために語られています。たしかに時には謎めいた主の言葉があり、理解しがたい言葉に直面することもあります。心に何も響くことがない時もあり、何も感じることがない時もあります。しかしその意味をさらに深く尋ね求めていく人には、必ずその意味は明らかにされていき、理解できるようになっていきます。ここでは「覆われているもので明らかにされないものはありません。また隠されているもので知られないものはありません。それは明らかに知られるようになります」と約束されています。御言葉は、それを主体的に求める人に対して開かれていくもので、熱心にその意味を尋ね求める人に説き明かされていきます。だから主はわたしたちに御言葉を「どのように聞いているかを見ていなさい」と求められるのです。