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7月26日(使徒言行録7章39〜41節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒言行録7章39~41節 金の子牛事件と契約の破棄〕

 わたしたちの父祖たちは彼に従順になろうとはしませんでした。かえって彼を押しのけて、彼らの心の中でエジプトに帰りました。彼らはアロンに「わたしたちに先立って行く神々をわたしたちに造ってくれ」と言いました。「なぜならわたしたちをエジプトの地から連れ出したあのモーセに、いったい何が起こったのかわたしたちは分からないから」と。そしてそれらの日々の間に彼らは子牛を造りました。そして彼らはその偶像にいけにえを捧げました。そして彼らの手の業(である偶像の子牛)を楽しみました。

 

イスラエルの民は「十戒」と「契約の書」に基づいて神と契約を結び、神の聖なる民としての歩みを始めました。ところがその舌の根の乾かないうちに早くも堕落し、偶像礼拝をします。しかしここで注意してほしいのは、彼ら自身は決してイスラエルの神以外の何か別の神を拝もうとしたのではなく、あくまでも「わたしたちに先立って行く神々」に礼拝を捧げたつもりでいたということです。彼らは『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んで、その像に向かっていけにえを捧げ、礼拝をしました。それは彼らにとってはどこまでも自分たちをエジプトから導き上ったイスラエルの神ご自身であるわけです。もし十戒が第一戒、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」だけであったら、彼らの行為は違犯になりませんでした。しかしそこに第二戒、「あなたはいかなる像も造ってはならない」が加えられることで、心においてはまことの神を礼拝しているつもりで、実は偶像礼拝をしているというわたしたちの礼拝の実態に、厳しい問いかけをすることになります。偶像はわたしたちの外にではなく、心の内にあります。わたしたちの自分中心な心が、自分に都合の良い偶像を捏造するのです。聖書が啓示する真の神を礼拝しているつもりで、実は偶像礼拝をしているということがないかどうか、わたしたちの信仰と礼拝が、御言葉によって吟味されていく必要があります。