· 

6月21日(使徒言行録7章30〜38節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒7章30~38節 「わたしはある」という存在の神〕

 そして40年が満ちると、シナイ山の荒れ野において、御使いが柴の火の炎の中で彼に現れました。そこでモーセはその幻を見て不思議に思い続け、よく見ようと近寄って行ったとき、主の声が起こりました。「わたしはあなたの父祖たちの神、アブラハムとイサクとヤコブの神(である)。」しかしモーセは震え上がり、あえてよく見ようとはしませんでした。そこで主は彼に言いました。「あなたの足の履き物を脱ぎなさい。なぜならあなたが立っている場所は聖なる地だからだ。わたしはエジプトでのわたしの民への虐待を確かに見た。そして彼らのうめきを聞いた。そしてわたしは彼らを救い出すために降って来た。さあ今わたしはあなたをエジプトに遣わそう。」「だれがお前を支配者そして裁判官に任命したのか」と言って人々が拒絶したこのモーセを、神は柴の中で彼に現れた御使いの手で支配者として救済者として遣わされたのです。この人は彼らを連れ出して、エジプトの地の中で、そして紅海の中で、そして荒れ野の中で40年間、数々の不思議と奇跡を行いました。この人がイスラエルの子孫たちに、「神はわたしのように、あなたがたのためにあなたがたの兄弟たちの中から一人の預言者を立ち上がらせられるでしょう」と言ったあのモーセです。この人がシナイ山において、彼に語る御使いやわたしたちの先祖たちと共に荒れ野の集会にいて、生ける言葉を受けてわたしたちに与えてくれました。

 

 自信と自負心に満ちたモーセに必要なことは、そうした自信と自負心とが打ち砕かれて、自分の力と知恵によってではなく、ただ神の助けと支えの中で自分の使命を果たすようになることでした。そのために神はモーセをさらに40年訓練されました。そうして整えられたモーセに神は語りかけられました。そこで神が最初に彼に言ったことは「履き物を脱げ」ということでした。履き物は自分に対する権利、特に所有権を象徴するもので、それを相手に渡すことで、自分の権利を放棄するものでした。つまり神は打ち砕かれて謙遜になったモーセに、さらに自分自身に対する所有権を放棄して、神に明け渡すように求められたのでした。そしてご自身の名を明らかにされました。「わたしはあるもの、わたしはあるもの」これが神の名であると。「わたしはある」とは、ただ神が存在しておられるというだけではなくて、唯一の存在者であり、それ以外の全ての存在は、神によって無から有へと呼び出され、存在させられているということです。神なしに存在するようになったものはなく、ただ神だけが永遠の始めから永遠の終わりまで存在し続ける唯一の存在者です。その神がわたしたちをも存在へと呼び出され、存在することを許してくださいました。わたしたちの存在は、ただ神にのみかかっています。神が在らしめてくださるから、わたしたちは存在します。わたしたちを在らしめてくださる神に寄り頼んで生きていきましょう。