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5月17日(使徒言行録7章1〜8節)

聖霊の力による使徒の働きと教会の発展(使徒言行録講解)

第20講:ヤコブに現れた憐れみの神(使徒言行録7章1~8節-3)5月17日

 

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒7章1~8節 ヤコブに現れた憐れみの神〕

 そこで大祭司が言いました。「あなたはこれらのことを、このように持っているのか。」すると彼(ステファノ)は言い続けました。「兄弟たち、また父たちである皆さん、聞いてください。栄光の神は、わたしたちの父アブラハムがカランに定住する前にメソポタミアにいたときに現れました。そして彼に向かって言いました。あなたの(先祖代々住んでいた)土地とあなたの親族から出て行きなさい。そしてわたしがあなたに示す土地に来なさい。」それから彼はカルデアの土地から出て行き、カランに定住しました。彼の父(テラ)が死んだ後に、彼(神)はそこから、あなたがたが今定住している土地に彼(アブラハム)を定住させました。しかし彼(神)はその中で彼(アブラハム)に財産も、一歩の幅の土地も与えませんでした。しかし子どものいない彼に、そして彼の後の彼の子孫に、それを所有地として与えると約束されました。しかし神は語りました。「彼の子孫は他の土地で寄留者となる。そして奴隷とされ、四百年間虐待されるでしょう。しかし(彼らを)奴隷とする国民をわたしは裁くでしょう。」神は言われました。「そしてこれらの後に彼らは出て行くでしょう。そしてこの場所で、彼らはわたしに仕えるでしょう。」そして彼(神)は彼(アブラハム)に割礼の契約を与えました。そしてこのように彼はイサクを生み、八日目に彼に割礼を施しました。そしてイサクはヤコブを、そしてヤコブは十二人の族長たちを生みました。

 

神がイサクに約束された、「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」という約束は、さらにヤコブにも与えられていきます。神はヤコブに、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と約束されました。そして事実、神はヤコブと共におられ、ラバンの策略の中で彼を守られます。そこでもし神が彼と共にいてくださらなかったら、自分は無一文で追い出されたはずだったとヤコブは述懐します。この恵みをヤコブに与えられたのは、彼にその資格があったからでも、彼がそれにふさわしい人物だったからでもなく、ひとえにアブラハムとの契約のゆえであり、その契約を守られる神の真実のゆえでした。逃亡の地であるハランから約束の地に戻ったヤコブはかつて初めて神と出会ったベテルにおいて、「苦難の時、わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」のための祭壇を築き、神に感謝します。そしてヨセフのいるエジプトに下るに際しても神は、「わたしは神、あなたの父の神である。わたしがあなたと共にエジプトに下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」と約束されます。「わたしはあなたと共にいる」。わたしたちもこの同じ約束である恵みの契約の中に置かれています。

 

1.アブラハムとその子イサクとの契約(創世記22章16、17節、26章3、4、24節)

 神がアブラハムに与えられた、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創世記15章4節)との約束は、イサクの誕生によって実現します。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」とも神は約束されていましたが(同18章18、19節)、それはイサクによって実現していくことになるのです。ところが神は、アブラハムの「愛する独り子イサク」を、モリヤの山で焼き尽くす献げ物としてささげることを求められます。そしてアブラハムは躊躇することなく神に服従し、命令を遂行するのでした。この躊躇なき服従の背後にあるのは、「神が備えてくださる」との信仰でした(同22章8節)。聖書は、驚きやとまどいといったアブラハムの心の動きを一切語ることをしないで、「神を畏れる者」(同22章12節)として淡々と従う姿を語り、彼の服従ぶりを浮き彫りにします。そしてアブラハムは「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」ことにより、神への献身と服従をあざやかに示すのでした(同22章16節)。このモリヤの山で、後には神ご自身がご自分の独り子さえ惜しまれない方であることを明らかにされます。主イエスの十字架は、かつてアブラハムがイサクを捧げたモリヤの山(歴代誌下3章1節)、エルサレムの神殿の近くに立てられました。アブラハムのイサク供犠は、実は神ご自身の主イエスの十字架の予型でした。そしてアブラハムとその子孫に対する「恵みの契約」そのものが、この主イエスの十字架によって確証されるものとなるのであり、そこには神の言いつくせない犠牲と苦しみが払われていきます。アブラハムのイサク供犠は、この神ご自身が払われた代償のゆえに結ばれた契約によって、アブラハムとその子孫が救われ、祝福されることを予表するものであり、この神の側の先立つ恵みと犠牲に対する、アブラハムの側からの感謝の応答として求められたものなのでした。そしてここでもアブラハムに対する約束が繰り返されていきます。「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と(同22章17、18節)。

 

こうして神はアブラハムとの契約において、アブラハムの子孫に土地を与え、その子孫が繁栄する約束を与えられました(創世記12章7節、131417節、15章5、8、1821節、17章4~8節、221617節、24章7節)。そしてその約束は、イサク、ヤコブ、ヨセフへと引き継がれていきました(同26章3、4、24節、28章3、4、1315節、3213節、351112節)。さらにその祝福は、ただアブラハムとその子孫(イスラエル)だけではなく、彼らを通じて地上のすべての人々にも及ぼされ、広げられていくものともなりました(同12章2、3節、1818節、2218節、26章4節、2729節、2814節、39章5節)。神は、アブラハムの息子イサクに対しても、「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と、かつてアブラハムに与えられたものと同じ約束、つまり祝福の源としての祝福、土地の授与、子孫の繁栄を約束されますが、それは「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったから」でした(同26章3~5節)。そしてこの約束が真実であることは、イサクに敵対していたアビメレクによっても確認されます。アビメレクは、「主があなたと共におられることがよく分かった」(同2628節)と語り、イサクに「あなたは確かに主に祝福された方」(同29節)だと語りかけますが、それはイサクに対する神の祝福の確証となりました。

 

2.アブラハムの孫ヤコブとの契約(創世記281315節)

さてそのイサクは、双子の兄弟のうち兄エサウの方を偏愛していましたが、弟のヤコブを祝福して、妻リベカの実家に送り出すことになります。このイサクの祝福も、「子孫の繁栄と土地取得」というアブラハム以来の神の祝福が祈られます(同28章3、4節、27章27~29節)。それは「支配」ではなく、逆に「祝福の源」としての祝福(同22章18節、26章4節4、14節)でした。こうしてアブラハム、イサクに与えられた神の祝福は、ヤコブにも与えられます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」と(同28章13、14節)。しかしそれは、子孫の繁栄と土地取得、祝福の源としての祝福といった、これまでの約束の繰り返しであるばかりではなくて、そこにイサクに与えられた約束、「わたしはあなたと共にいる」も加えられていきます(同26章3、24節)。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と(同28章15節)。このときヤコブは、自分が犯した過ちの結果を自ら刈り取り、着の身着のままの逃亡をよぎなくされていました。そして疲れ果て、憔悴しきって寝た、その夜に聞いた神の約束でした。この逃避行は誰のせいでもない、自分の過ちでした。その結果を刈り取るべく逃げ落ちているとき、しかし神は彼を見捨てることなく、共にいてくださると約束されたのです。神がわたしたちにしてくださる「わたしはあなたと共にいる」という約束は、わたしたちがそれにふさわしいからそうしてくださるわけではありません。また神はわたしたちにそうする義務や責任があるわけでもありません。なによりわたしたちが立派であるとか、人間が優れているとか、役に立つからとか、信仰が従順であるからということが理由ではありません。わたしたちの人間的な要因に基づいてこの約束が為されるわけではなく、全く神の方からの一方的な恵みとして為されるものなのです。神がこの約束を与えた時のヤコブは、信仰が熱心であったからでも、神に忠実な人物だったからでも、人間として優れているからでもありませんでした。兄を騙し、父をも騙して、その欺きの結果を自ら刈り取って命からがら逃亡するという、一番惨めな時に与えられた約束でした。神はヤコブがアブラハムのように忠実で熱心だったからこの約束を与えられたわけではありませんでした。むしろ狡猾で偽善に満ちたどうしようもないヤコブに対しても、この約束を与えてくださり、これから以降のすべての歩みにおいて彼を守り、導いてくださると約束してくださったのです。

 

神は、罪を犯して苦しむわたしたちを、天の御座に鎮座ましまして眺めやり、地上ではいつくばりながら生きる哀れな人間どもを哀れんでやるという神ではない、むしろその苦しみのただ中にまで降り来たり、共に歩んでくださる神なのです。わたしたちの苦しみを「共苦」し、ただ共に苦しみ悩むだけではなくて、その苦しみの道筋を共に歩んでくださる神です。そしてそのような神が、わたしたちを見捨てることなく共にいて、わたしたちを守り抜いてくださるのです。そこで神は、わたしたちの苦しみを知ってくださり、苦しむわたしと共にいて、苦しむわたしを背負い、守ってくださる、そういう神なのです。わたしと共に歩み、わたしを守り抜いてくださる神が共にいて、苦しむわたしと共に苦しんでくださるのです。今わたしたちは新型ウイルスの脅威の中に置かれ、いつ自分や家族が感染するか不安の中にあります。しかもこうした疫病だけではなく、それによって人間関係が断絶したり分断したりしてしまっていますし、それは民族や国との対立をも生じさせています。そしてこの疫病はわたしたちの生活をも一変させてしまいました。生産活動や経済活動が中断し、それはこれから大きなしわ寄せをわたしたちの生活の中に及ぼしていくことが予想されています。そしてまさにこのような時に、アフリカではバッタの大量発生により飢饉の危機が押し寄せようとしています。今わたしたちが直面している危機は、これまでの人類史上でも類を見ることがないほど大きなものだということができます。しかしこのような事態にあっても、神の約束は揺るぐことなく、すたれることもありません。「わたしはあなたと共にいる」というアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた約束は、その子孫であるわたしたちにも受け継がれて与えられているものなのです。将来に希望を見出しえない今だからこそ、この約束の確かさの中に立ち続けていきたいと思います。

 

そして事実、神はヤコブと共におられ(同31章3節)、ラバンの策略の中で彼を守られます。そのハランでの二十年に及ぶ生活を振り返って、後にヤコブは、もし神が自分と共にいてくださらなかったら無一文で追い出されたはずだと述懐します(同31章5、42節)。この破格の恵みをヤコブに与えられたのは、彼にその資格があったからでも、彼がそれにふさわしい人物だったからでもなく、ひとえにアブラハムとの契約のゆえであり、その契約を守られる神の真実のゆえでした。この神の恵みに出会ってもヤコブは依然として自己保身的で計算づくであり、神に対する感謝は条件つきのものにすぎませんが、それでも神はヤコブを祝福し守り、彼の神となって彼と共にいてくださるのです。ここでヤコブは神に誓願を立てます。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、飲み物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら・・・」と(同28章20~22節)、それは条件ばかりで、自分勝手な言い分ばかりの誓願でした。しかし神はこのヤコブの誓願に応えて、このときのヤコブは知るよしもなかった、これからの苦難の二十年間(同29~32章)はもとより、エサウからの襲撃の危機(同33章)、さらには一族滅亡となりかねなかったシケムの大事件(同34章)においても、神はヤコブと共にいて、その旅路のすべてにおいて彼を守り、必要を満たしたばかりか、多くの財産をたずさえるまでに祝福した上で、無事に父の家に戻してくださったのでした。後にヤコブは、この真実な神、「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」(同35章3節)のために、祭壇を築いて礼拝を捧げ、ここでの誓願を実現させていくのです(同35章7節)。そして再びベテル、つまり彼が初めて神と出会った最初の場所に戻ったとき、ヤコブはイスラエルと改名させられます。そして新たにイスラエルとなったヤコブに神は、「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える」と約束してくださるのでした(同35章9~12節)。この後ヤコブは、息子ヨセフの保護を求めてエジプトに下ることになりますが、そこでも神は、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」と約束されます(同46章3、4節)。そしてその約束どおり、ヤコブはヨセフと兄弟たちによって、祖父アブラハムと妻サラ、父イサクと母リベカ、そして妻レアの眠る先祖の墓(同49章31節)に葬られることになります(同50章13節)。こうして神は、かつてヤコブに与えられた、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」との約束を真実に果たしてくださるのでした。

 

3.「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」(出エジプト記2章24節)

 これまでのことをまとめてみましょう。これらのアブラハムおよびその子孫と結ばれた契約(土地取得と子孫繁栄)の中心にあることは、「わたしは・・・あなたとあなたの子孫の神となる。・・・わたしは彼らの神となる」(同17章7、8節)ということであり、その約束は旧約聖書を通じて、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(出6章7節、レビ記2612節、申命記4章34節、7章6節、14章2節、261819節、291213節、サムエル下7章24節、詩編95編7節、エレミヤ7章23節、11章4節、24章7節、3022節、3133節、エゼキエル1120節、3628節、黙示録21章7節)という約束として、一貫して貫かれていくものとなります。この約束、「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」を言い換えると、「わたしはあなたと共にいる」という約束になります。そしてこの「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」ということで、この約束、すなわち、「わたしはあなたと共にいる」という約束がアブラハム自身にも(創世記2122節)、その子孫にも繰り返されていくことになります(同26章3、4、2829節)。この約束はヤコブにも繰り返されます(同2815節、46章3、4節)。まさに神はヤコブにとって、「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」なのでした(同35章3節)。そしてこの約束は、この後もイスラエルの民に繰り返されていくことになります。ヤコブと共にエジプトに下ったイスラエルの民は、やがてエジプトで虐待され、苦しめられることになります。そこで彼らの叫びを聞かれた神は、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」を思い起こされることで(出エジプト記2章24節、6章5節)、彼らを救い出そうとするのでした。そのために立てられたのがモーセですが、そのモーセに約束されたことも、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」ということなのでした(出3章12節)。そしてこの約束は、モーセの後を引き継いでイスラエルの民を「約束の地」へと連れ戻すヨシュアにも与えられていきます。モーセの後継者として立てられたとき、神はヨシュアに言われました。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたはわたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1章5~9節)。そしてこの約束はあらかじめモーセによっても語られていたことであり(申命記31章6~8節)、実際ヨシュアに実現していくことでした(ヨシュア6章27節)。こうして「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約」は、イスラエルの民においてずっと有効なものとして継承されていくのでした。こうしてイスラエルの子孫に脈々と受け継がれてきた、「わたしはあなたと共にいる」という神の約束は今も生き続けており、わたしたちもこの同じ約束である「恵みの契約」の中に置かれているのです。わたしたちもヤコブと共に、「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神」に信頼し続けて、その神がどのような状況、境遇の中にあっても「わたしはあなたと共にいる」という約束を真実に果たしてくださることに信頼していきたいと思います。