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4月26日(使徒言行録6章8〜15節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒6章8~15節 聖霊による聖なる歩みをする者に〕

 さてステファノは恵みと力に満ちて、民衆の中で大きな奇跡【不思議】としるしを行い続けていました。そこで(ローマでの)解放奴隷【リベルティーノ】と呼ばれている会堂の人々とキュレネ人とアレキサンドリア人とキリキア・アシアからの人々が立ち上がり、ステファノと議論しました。しかし彼らは、彼が知恵と霊によって語り続けるので、対抗する力がありませんでした。そのとき彼らは共謀して、男たちに、「わたしたちは彼がモーセと神に対して冒瀆の言葉を語るのを聞きました」と言わせました。彼らは民衆も長老たちも律法学者たちも扇動して、彼に襲いかかると、無理やり捕らえて最高法院に連行しました。それから偽証人を立てて、「この男はこの聖なる場所(神殿)と律法に逆らう言葉を語ることをやめませんでした」と言わせました。「わたしたちは彼が『あのナザレ人イエスは、この場所(神殿)を破壊し、モーセがわたしたちに伝授した慣習を変える』と言っているのを聞きました。」そこで最高法院の中に座っているすべての人々は彼を凝視しましたが、彼の顔はさながら天使の顔のように見えました。

*( )は原文にはないが理解に供するため付加したもの。【 】は別の訳。

 

ステファノは神殿についての偽りの安心にあぐらをかいている人々に対して痛烈な言葉を語りました。かつてエレミヤがユダの民を告発したように、神が臨在するしるしである神殿がある限り、我々は神の守りの民であると選民的特権意識に安住していた人々に対して、神殿は神の戒めに忠実な者たちにとっての神の恵みのしるしであるとステファノは語ったのでした。神殿があれば自動的に神の恵みが与えられるというのではなく、神の戒めに忠実に生きる者たちにとっての神の臨在のしるしであり、そこでは民が神の戒めに主体的に応答していくことが求められていました。このことはわたしたちにもあてはまります。教会に所属していたら自動的に神の恵みが与えられるのではありません。教会員であることが神の祝福をもたらす根拠なのでもありません。わたしたちが信仰的に神に応答していくことにおいて、教会を通して神の祝福がもたらされるのです。わたしたちは神の戒めに忠実に歩むことにおいて、教会を通して祝福をいただくのです。しかしさらに言えばわたしたち自身が神の神殿です。聖霊を自分自身に宿す者として、それにふさわしい生き方をしているでしょうか。聖霊に導かれた聖なる歩みをしているでしょうか。聖霊が結ぶ、愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といった実を結んでいるでしょうか。自分の内に宿る聖霊によって、心を隅々まで聖めていただき、聖なる歩みをしていきましょう。