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3月1日(使徒言行録3章1〜10節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒3章1~10節 持っているものをあげよう

 さてペトロとヨハネは第九(午後3時)の祈りの時間に神殿に上って行きました。すると彼の母の胎から足の不自由な状態にある男が担がれて、日ごとに神殿に入って行く人々から施しを求めるために、美しい門と言われている門の所に人々は置き続けていたのでした。彼は神殿に入って行こうとするペトロとヨハネを見ると、施しを受けることを求めました。そこでペトロはヨハネと共に彼をじっと見つめて、「わたしたちを見なさい」と彼に言いました。そこで彼は彼らから何かを受け取ることを期待して、彼らをじっと見つめました。ところがペトロは言いました。「銀貨や金貨はわたしは持っていません。しかしわたしが持っているもの、これをあげましょう。ナザレのイエス・キリストの名によって起き上がり、歩き回りなさい。」そして彼は彼の右手を握りしめて彼を起き上がらせました。するとたちまち彼の両足とくるぶしが強くされて、彼は跳び上がりながら立ち上がり、歩き回りました。そして踊り上がり神を賛美し続けながら、彼らと共に神殿の中に入って行きました。そこで民衆全体は、彼が歩き回り続け、神を賛美し続けているのを見ました。そして人々は、彼が施しのために神殿の美しい門の所に座っていた人であることがはっきり分かりました。そこで人々は彼に起こったことで驚きと驚愕でいっぱいになりました。

 

 神殿の美しい門に座って物乞いをしていた男がいた。そこでペトロが彼を見つめて言ったことは、「銀貨や金貨はわたしは持っていません」でした。この言葉に彼は落胆したでしょう。しかしこの後ペトロは彼の期待をはるかに上回ることを語ります。「しかしわたしが持っているもの、これをあげましょう。ナザレのイエス・キリストの名によって起き上がり、歩き回りなさい。」「ない。」それは事実でした。しかし信仰はこの「ない」という事実から始まります。五千人以上の人々が満ち足りるほどのパンを主が与えたときのように、「ない」といってもまったく何もないわけではありません。そのときも五つのパンと二匹の魚があったのです。しかしそれがその場にいる人々を満たすことは不可能だと見なされました。ここでも金銀はないのです。またこの男自身にも信仰はひとかけらもありませんでした。しかしペトロは持っていたのです。「わたしが持っているもの」、それは「ナザレのイエス・キリストの名によって起き上がり、歩き回りなさい」と命じる信仰でした。そして生まれながら足の不自由だった男、つまり一度も立ったり、歩いたりすることがなかったこの人が躍り上がって立ち上がり、歩き回り、踊り回りました。ここにかつて足の不自由な人を起き上がらせた、復活の主イエスが生きて働いておられることを見ることができるのです。わたしたちに求められるのも、この生ける主に対する生きた信仰なのです。