1月26日(使徒言行録2章1〜21節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒2章1~21節(2) 与えられる聖霊の賜物

 さて五旬祭(ペンテコステ)の日が満たされて、すべての人々が共に一つになって集まっていました。すると突然、天から激しい風が吹きつけてくるような音がして、彼らがずっと座っていた家全体を満たしました。そして火のような数々の舌が分かれて彼らに現れ、彼らおのおの一人一人の上にとどまりました。するとすべての人々が聖霊に満たされて、霊が彼らに語り出させるままに、異なる言葉で語り始めました。

 ところでエルサレムには天の下のあらゆる国々からの敬虔なユダヤ人たちが住んでいました。ところがこの音が起こったので、大勢の人々が集まって来ましたが、おのおの一人一人が、自分の国の言葉で語っているのを聞いて、あっけにとられました。そして驚きながら言いました。「見なさい、話しているこれらの人々は、みなガリラヤの人々ではないか。それなのに、どうしてわたしたちがそれぞれに、わたしたちの生まれた国の言葉を聞いているのだろうか。パルティアとメディアとエラム、またメソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポントスとアジア、フルギィアとパンフリア、エジプトとクレネに接するリビアの地方に住んでいる人々、またここに滞在しているローマ人、ユダヤ人たちや改宗者たち、クレテやアラビアの人々です。わたしたちが自分たちの言葉で彼らが神の偉大な御業を語っているのを聞いています。」そこですべての人々は非常に驚き、ひどく困惑して、ある人は他の人に言いました。「これはいったいどういうことなのだろうか。」しかし他の人たちはあざけって、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言いました。

 そこでペトロは十一人と共に立ち上がって、声を張り上げ、大声で語りました。「ユダヤの方々、そしてエルサレムに住んでいるすべての方々。あなたがたにこのことを知ってもらいたい。わたしの言葉に耳を傾けてください。あなたがたが思っているように、この人々は酔っているのではありません。朝の第三時〔=九時〕だからです。むしろこのことこそ預言者ヨエルによって言われていたことなのです。

『神は言われる。終わりの日々に、わたしはわたしの霊をすべての肉(である者=人間)に注ぎ出す。するとあなたがたの息子たちやあなたがたの娘たちは預言するだろう。またあなたがたの青年たちは幻を見るだろう。そしてあなたがたの老人たちは夢を見るだろう。そしてわたしの僕たちの上に、さらにわたしのはしためたちの上にも、それらの日々にはわたしの霊を注ぎ出すだろう。すると彼らは預言する。またわたしは、上では天の中に不思議を与えよう。また下では地の上でしるしを(与えよう)。血と火と煙である。太陽は暗闇に変えられるだろう。月は血に(変えられるだろう)。主の大いなる、そして輝かしい日が来る前に。そして、主の名を呼び求めるすべての人々は救われるだろう。』

 

わたしたちに聖霊が注がれたのは、古い自分が死んで新しい自分となって新しい命に生きるようになり、新しく生まれ変わるためでした。そしてそのように新しくされたわたしたちは、自分のために死んで復活してくださった方のために生きる者へと変えられます。聖霊が注がれた第二の理由は、わたしたち一人一人に聖霊の賜物が与えられるためでした。それによって地上における主イエスの手足となって神の国をもたらす働きを担うようになるためです。聖霊降臨では、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあるように、聖霊が一人一人の上に注がれました。同じ聖霊がわたしたち一人一人にも与えられています。そしてそれぞれに賜物をいただいていますが、それはどれ一つも同じものはない、独自のものです。あなたに与えられた賜物はあなただけの特別な賜物で、他の人が代わることができない独特なものです。こうしてそれぞれに違う賜物を与えられたわたしたちが一人一人集まって、力を合わせて奉仕していくことによって、「一つ」の働きを担わされています。それは教会を建て上げていくという働きです。キリストの教会を建て上げるということにおいて、あなたは自分独自の賜物をもって、他の兄弟姉妹と共に力を合わせていきます。そこでは不必要な人はだれ一人としていません。教会はあなたの働きを必要としています。この務めのために祈りと力を合わせて仕えていきましょう。