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1月19日(使徒言行録2章1〜21節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 使徒2章1~21節 約束の聖霊の降臨

 さて五旬祭(ペンテコステ)の日が満たされて、すべての人々が共に一つになって集まっていました。すると突然、天から激しい風が吹きつけてくるような音がして、彼らがずっと座っていた家全体を満たしました。そして火のような数々の舌が分かれて彼らに現れ、彼らおのおの一人一人の上にとどまりました。するとすべての人々が聖霊に満たされて、霊が彼らに語り出させるままに、異なる言葉で語り始めました。

 ところでエルサレムには天の下のあらゆる国々からの敬虔なユダヤ人たちが住んでいました。ところがこの音が起こったので、大勢の人々が集まって来ましたが、おのおの一人一人が、自分の国の言葉で語っているのを聞いて、あっけにとられました。そして驚きながら言いました。「見なさい、話しているこれらの人々は、みなガリラヤの人々ではないか。それなのに、どうしてわたしたちがそれぞれに、わたしたちの生まれた国の言葉を聞いているのだろうか。パルティアとメディアとエラム、またメソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポントスとアジア、フルギィアとパンフリア、エジプトとクレネに接するリビアの地方に住んでいる人々、またここに滞在しているローマ人、ユダヤ人たちや改宗者たち、クレテやアラビアの人々です。わたしたちが自分たちの言葉で彼らが神の偉大な御業を語っているのを聞いています。」そこですべての人々は非常に驚き、ひどく困惑して、ある人は他の人に言いました。「これはいったいどういうことなのだろうか。」しかし他の人たちはあざけって、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言いました。

 そこでペトロは十一人と共に立ち上がって、声を張り上げ、大声で語りました。「ユダヤの方々、そしてエルサレムに住んでいるすべての方々。あなたがたにこのことを知ってもらいたい。わたしの言葉に耳を傾けてください。あなたがたが思っているように、この人々は酔っているのではありません。朝の第三時〔=九時〕だからです。むしろこのことこそ預言者ヨエルによって言われていたことなのです。

『神は言われる。終わりの日々に、わたしはわたしの霊をすべての肉(である者=人間)に注ぎ出す。するとあなたがたの息子たちやあなたがたの娘たちは預言するだろう。またあなたがたの青年たちは幻を見るだろう。そしてあなたがたの老人たちは夢を見るだろう。そしてわたしの僕たちの上に、さらにわたしのはしためたちの上にも、それらの日々にはわたしの霊を注ぎ出すだろう。すると彼らは預言する。またわたしは、上では天の中に不思議を与えよう。また下では地の上でしるしを(与えよう)。血と火と煙である。太陽は暗闇に変えられるだろう。月は血に(変えられるだろう)。主の大いなる、そして輝かしい日が来る前に。そして、主の名を呼び求めるすべての人々は救われるだろう。』

 

二階座敷聖霊を待ち望み、心を一つにして祈り求めていた祈りの群れに聖霊が注がれました。しかしどうして聖霊が必要なのでしょうか。力を得るため、そのとおりです。しかしそれ以前に、肉は何の役にも立たないことを覚える必要があります。生まれながらの肉の性質の中にあるわたしたちは、たとえどれほど有能であっても、才能に恵まれていても、それで神の働きを担い、働けるわけではありません。心が肉のままでは、霊の働きをすることができないからです。そのためにはわたしたちに聖霊が与えられて、肉の性質を持つ生まれながらの自分自身が、心の奥底からまったく新しくされる必要があります。わたしたちが神の役に立つ者とされるためには、この聖霊による生まれ変わりが必要です。そのために聖霊が一人一人に注がれるようになったのです。そしてその聖霊がわたしたち一人一人を新しく生まれ変わらせると共に、心を一新して、霊の力に満たして神の働きを担う者とさせていくのです。わたしたちが証しの場に立たされる時、心配しなくてよい、「そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と約束されました。語る力だけではなく語る言葉さえも聖霊が与えてくださいます。だからわたしたちは、わたしたちを日ごとに新しく生まれ変わらせ、日ごとに新しい力を与えてくださる聖霊に、満ち溢れさせていただくように祈り求めていきましょう。