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12月15日(ルカ24章36〜43節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ24章36~43節 主が与える平安に満たされて〕

 しかし彼らがこれらのことを話していた時、彼(イエス)が彼らの真ん中に立って、彼らに、「平安があなたがたに(あるように)」と言いました。ところが彼らはおびえ、恐ろしくなり、幽霊を見ているのだと思いました。そこで彼は彼らに言いました。「なぜあなたがたは動揺しているのですか。なぜあなたがたは自分たちの心の中で疑いがわきおこっているのですか。わたしの両手とわたしの両足を見なさい。まさにわたしです。わたしにさわりなさい。そして見なさい。霊は体と骨を持ちませんが、あなたがたがながめているようにわたしは持っています。」そしてこれらのことを言ってから彼は彼らに両手と両足を示して見せました。ところが彼らは喜びで信じられず、驚いていると、彼は彼らに言いました。「何か食べるものをここに持っていますか。」そこで彼らは焼いた魚の一部を彼に手渡しました。そこで彼は(それを)受け取ると彼らの前で食べました。

*( )は原文にないが理解のために補った。

 

 主の復活の知らせを聞いた後も弟子たちは部屋に閉じこもり、内側から鍵をかけて息をひそめていました。「主は確かによみがえり、シモンに現れた」と言い合っていた後もです。主が死を打ち破って復活されたということは、彼らを立ち上がらせ奮い立たせていく福音とはなっていませんでした。しかしそれはわたしたちも同じではないでしょうか。主の復活を信じています。しかしその復活の信仰はわたしたちを奮い立たせ、起き上がらせるものとはなっていないのです。そして弟子たちがあいも変わらず部屋に閉じこもり、内側から鍵をかけて息をひそめていたように、わたしたちも自分が直面する問題や、自分が抱える労苦の中に閉じこもってしまっているのです。病気や苦しみ、心配や思い煩いの中に頑固に固執し、そこから出てこようとはしないのです。主は死を打ち破って復活された、その知らせを知りつつも、依然として自分の殻の中に閉じこもったまま、出てこようとしないのです。しかし復活の主は、そんなわたしたちの心の中にまで入って来てくださって言ってくださいます。「平安があなたがたにあるように」と。その平安は、この世が与えるものとは違う、主の平安です。嵐のただ中でも揺らぐことのなかった平安であり、十字架の上の苦難の中で奪われることのなかった平安です。その主イエスご自身の平安をわたしたちにくださるのです。「平安があなたがたにあるように。」この平安で満たされますように。