· 

10月20日(ルカ23章26〜31節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ23章26~31節 主の十字架を代わりに背負う〕

 そして彼らが彼(イエス)を連れて行く時、彼らはあるクレネ人で田舎から出て来たシモンを捕まえ、イエスの後から運ぶために十字架を彼に背負わせました。民衆の多くの群れと、胸を打ちたたきながら悲しみ、彼のために悲嘆の声を上げる女性たちの群れがイエスの後に次々とついて行きました。そこでイエスは振り向いて彼女たちに向かって言いました。「エルサレムの娘たち、わたしのことで泣くのはやめなさい。むしろ自分たち自身のためと自分たちの子どもたちのために泣きなさい。なぜなら、『不妊の女性と(子を)産んだことのない胎、乳を吸わせたことのない乳房は幸いです』という日々が来るからです。そのとき人々は山に向かって『わたしたちの上に倒れてくれ』と、そして丘に『わたしたちを覆ってくれ』と言い始めます。生の木に対してこれらのことが為されるなら、枯れ木に対しては何が為されるでしょう。」

*クレネ人とはクレネ出身・在住のユダヤ人。( )は原文にないが理解のために補った。

 

 過越祭を祝うためにクレネから来たシモンは、たまたま居合わせた主の十字架への道行きの途上で、主の代わりに十字架を背負わされます。ゴルゴダの丘に主の十字架を置いたシモンは、それでお役御免となりますが、その後彼はどのような行動をとったかは何も分かりません。しかし男弟子たちはすべて鍵のかかった部屋に閉じこもり、女弟子たちも主の十字架を遠くから見ていたことからすると、主が十字架にかけられた後の振る舞いや言葉は誰が見聞きしたのでしょうか。断定はできませんが彼の妻と二人の息子は教会で知られた存在になっていたようなので、おそらくシモンも後に主を信じ、主の十字架の様子を弟子たちに伝えたのかもしれません。大切なことは、シモンは主の十字架を背負ってその後に従うことを強要されましたが、その十字架についたのはシモンではなく主御自身であるということです。わたしたちも自分の十字架を背負って主の後に従うことが求められますが、その十字架につけられるのはわたし自身ではなく、主であるということです。主がわたしたちのために十字架についてくださる、わたしたちはその十字架を背負うことだけが求められています。その十字架はたしかにわたしたちにとって重く、つらいものであるかもしれませんが、その十字架に掛かることまでは求められていません。主が代りにかかってくださる、そのことを覚えて喜んで十字架を背負い主の後につき従って行きましょう。