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9月8日(ルカ22章63〜71節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ22章63~71節 自分の裁きに備えて生きる〕

 さて彼(イエス)を監視していた男たちは、彼を打ちたたき続けながら、嘲り続けました。彼らは彼(の顔)を覆って、「お前を打ったのは誰か、預言しろ」と言って、しつこく尋ね続けました。そして彼らは、他にも多くのことで彼を冒瀆しながら言い続けました。

 そして朝になった時、民の長老会、(すなわち)祭司長たちと律法学者たちが召集され、彼らは彼を最高法院の中に召喚し、「お前はキリストなのか。わたしたちに言いなさい」と言いました。しかし彼は彼らに言いました。「たとえわたしがあなたがたに言っても、あなたがたは信じないでしょう。またわたしが尋ねても、あなたがたは答えないでしょう。しかし今から後、人の子は神の御力の右に着座するでしょう。」するとすべての人々が言いました。「それでは、お前は神の子か。」そこで彼は彼らに言いました。「わたしがそうだというのは、あなたがた自身が言っていることです。」すると彼らは言いました。「これ以上の証拠の必要がまだあるだろうか。わたしたち自身が、彼の口から聞いたのだから。」

*( )は原文にないが理解のために補ったもの。

 

 ゲッセマネの園で逮捕された主イエスを被告とした最高法院が開かれ、「お前はキリストなのか」と主イエスのメシア性が問われました。ここで主は「人の子は神の御力の右に着座する」と語りました。この「人の子」とは、ダニエル書の預言が下敷きにあります。それは世の終わりとき、「日の老いたる者」の裁きの前に進み出て、権威と威光と支配を受ける者で、主がご生涯の中でご自分のことを「人の子」と呼ばれたのは、ご自分こそがここに登場する「人の子」、つまり父なる神より支配権を受ける裁き主に他ならないことを明らかにされたのでした。主イエスこそ、世の終わりのときにすべての者を裁く裁き主なのです。そしてここで今、主を裁いている人々は、やがて主イエスの前に立って、自分自身が主に語ったことについて申し開きをし、釈明しなければならなくなるのでした。この裁判での被告人が、終わりの裁判では裁判官となり、ここで裁いている裁判官が、終わりの裁判では被告人となって、彼らの罪状を訴えられるのです。そのことをここで主は予告し、彼らに悔い改めを求められるのでした。わたしたちもやがて主のために立たされて、この方の前で自分の語ったことについての申し開きをしなければならず、自分の行ったことについてこの方によって裁かれていきます。わたしたちは、自分の裁きについての備えができているのでしょうか。心から悔い改めて、わたしたちも主の裁きに備えていきましょう。