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8月25日(ルカ22章39〜46章)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ22章39~46節 誘惑に陥らないように祈る〕

 そして彼(イエス)は(エルサレムを)出て行き、習慣に従ってオリーブの山の中に行きました。そこで弟子たちもまた彼について行きました。その場所に着くと彼は彼らに言いました。「誘惑の中に入って行かないように祈り続けなさい。」そして彼自身は彼らから石を投げれば届くところまで離れました。そして両ひざをかがめながら祈り続けられました。「父よ、もしあなたがお望みになるになるのでしたら、わたしからこの杯を取り去ってください。しかしわたしの意志ではなく、あなた(の意志)が為され続けますように。」そして彼のために御使いが天から現われて、彼を力づけ続けました。彼は非常な苦悶に満ちて、ますます熱心に祈り続けました。そして彼の汗は血のしずくのようになって、地にしたたり落ちました。

*( )は原文にないが理解のために補ったもの。

 

 ゲッセマネの園で主の祈りそれはどのようなものだったのでしょうか。それは激しい戦いであられたはずですが、それを福音書は、「父よ、もしあなたがお望みになるになるのでしたら、わたしからこの杯を取り去ってください。しかしわたしの意志ではなく、あなたの意志が為され続けますように」という祈りに要約します。それは主ご自身が自分の思いや願いを父に委ね、父の御心に従うことの戦いでした。悪魔からの誘惑、実はそれは外からではなく主ご自身の内からのものでした。自分自身の思いや願いや考えからの誘惑であり、そのような自分から自由にされて、いやいや強制されてではなく、心から喜んで主に従うように自分の思いそのものが変えられていく、そのために自分の思いを主に委ねていくことの戦い、それがこのオリーブ山での戦いだったのでした。自分が変えられていくための戦い、自分の心を捧げていくことの戦い、自分を神に従わせていく戦い、それが祈りの格闘なのです。祈りとは自分を神に捧げていくことであり、そのために自分に死ぬということです。神の御心を示されたとき、「わたしの願い」を押し通すのが祈りなのではなくて、むしろそこで「しかし」と言い切ることが祈りなのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」と、自分の思い・願いを神に委ね、神の御心を信頼して、それに服従していく、そのように自分が変えられるように自分を捧げていくことが祈りなのです。