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7月21日(ルカ22章1〜6節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ22章1~6節  祈らないことで生じる罪〕

 ところで過越と呼ばれている種なしパンの祭り(除酵祭)が近づいていました。そして祭司長たちと律法学者たちは、どうやって彼(イエス)を殺そうかと謀っていました。というのは民衆を恐れていたからでした。さてサタンがイスカリオテと呼ばれているユダの中に入って来ました。彼(ユダ)は十二人の数に入っていました。そこで彼は出かけて行き、祭司長たちや神殿守衛長たちと、どうやって彼らに彼(イエス)を引き渡すかを話し合いました。彼らは喜び、彼(ユダ)に金を与えることに同意しました。そこで彼(ユダ)は承諾し、群衆のいない時に彼(イエス)を彼らに引き渡す機会を探していました。

*( )は原文にないが理解のために補ったもの。〔 〕は別の訳。

 

 十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが主イエスを裏切るということは衝撃的なことです。彼がどうして主イエスを売り渡したか、その理由は分かりません。しかしルカとヨハネは、それを彼の心に「サタンが入った」ことによると見なしました。サタンが入るとは尋常なことではありませんが、しかしそれはただユダ一人だけの問題ではありません。わたしたちにも起こり得ることです。サタンは巧妙にわたしたちに働きかけてきます。決してそれがサタンの誘惑だとは気づかないようにして近づき、すっと心の中に入って来ます。そして大きな罪へと誘惑していくのです。わたしたちはどうしたらサタンの誘惑から守られていくのでしょうか。主イエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」と教えられました。わたしたちは物事を為そうとする時に、祈ることなく自分で事を判断し、決定し、行動します。祈りなしに、つまり神の助けなしに、事を為そうとします。そこに「祈らない罪」が生じます。祈らないことは罪なのでしょうか。祈らないことが罪であるというよりは、正確に言えば、祈らないことによって罪に陥り、誘惑に陥るのです。祈らないことの結果、罪へと転落するのです。ですからわたしたちは、いつも目を覚まして祈り続けることに努めていきたいと思います。物事を自分で判断し、決定し、行動するのではなく、神の助けと導きに委ね、そして従うのです。ならばサタンが心に付け入る隙を与えません。