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5月26日(ルカ20章41〜44節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ20章41~44節 ダビデの主であるダビデの子〕

 そこで彼(イエス)は彼らに向かって言いました。「なぜ人々は、『キリストはダビデの子(子孫)である』と言っているのでしょうか。ダビデ自身が詩編の書の中で言っています。『主はわたしの主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の足台とするまで、あなたはわたしの右に座していなさい」』と。」こうしてダビデが彼(キリスト)を主と言っているのですから、どうして彼(キリスト)はダビデの子(子孫)なのですか。」

*( )は原文にないが理解のために補ったもの。

 

主イエスの時代のユダヤの人々はメシアの登場を待望していました。そのメシアとは、異教徒たちの支配を打ち砕いて、その枷から神の民を解放し、かつてのダビデ・ソロモン帝国を再興してくれる軍事的政治的指導者でした。それは天の雲に乗って到来する「人の子」であり、イスラエルを永遠の統治する「ダビデの子」でした。そうして期待されるメシアはダビデの子、すなわちダビデの子孫であるわけですが、主は詩編を引用して、そこにある矛盾を指摘し、これまで質問攻めにしてきた人々に逆に問いかけられました。「ダビデが彼(キリスト)を主と言っているのですから、どうして彼(キリスト)はダビデの子(子孫)なのですか」と。ダビデの子であればダビデの後に生まれる方であり、ダビデの下に位置するべき方であるはずなのに、ダビデ自身がその方を「わたしの主」と呼び、しかも今まさに目の前にいる方として呼びかけているのです。これはどうしたことかと尋ねられたのでした。聖書は、ダビデの子である主イエスが、ダビデよりもはるかに先からおられる方で、単にダビデの子孫であるというだけではなく、神であることを明らかにします。人々はメシアを誤解し、誤解したまま待望していたために、メシアが登場したとき、彼をメシアと受け入れることができませんでした。誤ったメシア理解、それはわたしたちにも起こり得ることです。あなたは正しく主イエスをメシアとして信じているでしょうか。