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2月17日(ルカ18章35〜43節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ18章35~43節 霊的な開眼を祈り求める〕

 さて彼(イエス)がエリコに近づいていたときに(起こったことですが)、ある盲人が物乞いをしながら道のそばにずっと座っていました。しかし彼は群衆が通り過ぎ続けているのを聞いて、「これは何事ですか」と尋ね続けました。そこで人々は彼に「ナザレのイエスが通っておられる」と知らせました。すると彼は「イエスよ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と言いながら叫び続けました。すると先頭を行く人々が彼を叱りつけ、黙らせようとしました。ところが彼は、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、ますます激しく叫び続けました。

 するとイエスは立ち止まって、彼が彼(イエス)の許に連れて来られるように命じました。そこで彼が彼(イエス)に近づくと、彼に尋ねられました。「あなたは、あなたのためにわたしが何を行なうことを願って〔望んで〕いるのですか。」そこで彼は言いました。「主よ、わたしが見えるようになることです。」するとイエスは彼に言いました。「見えるようになりなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると彼はたちどころに見えるようになりました。そして神をあがめながら彼(イエス)について行きました。そして(それを)見ていた群衆たちすべては、神に賛美をささげました。

*( )は原文にないが説明のために付加したもの。〔 〕は別の訳。

 

エルサレムで起こることを予告された主イエスは、弟子たちに「わたしについて来なさい」と求められました。この受難予告を挟んで盲人の開眼の奇跡が語られます。金持ちの議員は悲しみながら去って行きましたが、この盲人は「彼について行きました。」ペトロたちも財産を棄てて主イエスに従っているように見えましたが、実のところは棄て切っていなかったし、真実に主イエスについて来てはいませんでした。この彼らと対比されるのがこの盲人です。彼は目が開かれた喜びと共に神を賛美しながら、主イエスについて行きました。これが真の弟子の姿であることをルカは示そうとします。主は彼に言いました。「あなたの信仰があなたを救いました」と。彼の目が開かれたのは、彼が立派な信仰を抱いていたからでしょうか。主から褒められるほど見上げた信仰の持ち主だったので、その立派な信仰が彼を救ったのでしょうか。彼の信仰が立派だったとか、堅固で揺るぎない見上げた信仰だったというのではなく、彼ははっきりと主イエスなら自分の目を開くことができると信頼していました。だから何をしてほしいかと問われたときにためらわず彼は言いました。「見えるようになることです」と。この主イエスに対する信頼が、彼を闇の世界から光の世界へと救い出しました。同じように霊的闇の中に生きるわたしたちも、霊的開眼が必要ではないでしょうか。わたしたちも「見えるようになること」を求めていきましょう。