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5月19日(ルカ20章27〜40節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ20章27~40節 生きている者たちの神〕

 するとサドカイ派の人たちの中のある人たちが近づいてきました。彼ら(サドカイ派)は復活はないと(復活を)否定している人々でしたが、彼(イエス)に質問して言いました。「先生、モーセはわたしたちに命じました。もし妻を持っている兄弟が死んだなら、この人に子どもがない場合、彼の兄弟がその妻を娶り、彼の兄弟の子孫をもうけるようにと。ところで七人の兄弟がいましたが、最初の者が妻を持ち、子どもがないまま死にました。そこで二番目の者がその妻を娶り、そして子どもがないまま死にました。そこで三番目の者も彼女を受け取りましたが同様でした。こうして七人の者たちが子どもを残しませんでした。そして死にました。すべての兄弟たちが死んだ後で、その女性も死にました。それでは復活において、その女性は兄弟たちの誰の妻となるのでしょうか。というのは、七人とも彼女を妻として持ったからです。

 そこでイエスは彼らに言いました。「この世の人たちは娶り、嫁ぎます。しかしあの世を獲得し、死者たちからの復活に到達することがふさわしいと見なされた人たちは、もはや娶ることも嫁ぐこともありません。彼らはもはや死ぬことができなくなり、御使いと同じになり、復活の子たちとして神の子たちとなるのです。死者たちが復活させられることは、モーセもまた柴の箇所で、主を『アブラハムの神、そしてイサクの神、そしてヤコブの神』と言って、知らせました。それで神は死者たちの(神)ではなく、かえって生きている者たちの(神)であり、すべての人たちは彼において生きています。」すると律法学者たちのある人々が答えて言いました。「先生、よく言われました。」そこでもはやあえて彼に公然と質問することは何一つありませんでした。

*( )は原文にないが理解のために補ったもの。

 

マタイ、マルコでは「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と紹介され、それが死者の復活の証明であるとされています。ルカはこの「である」を省略していますが意味は同じです。モーセの時代に今も現にアブラハム、ヤコブ、イサクが生きているから、「~の神である」と言われたのです。ここで大切なのは、「神は死者たちの(神)ではなく、かえって生きている者たちの(神)であり、すべての人たちは彼において生きています」という主の言葉です。すべての人は神によって生きています。生かされています。そして主と結ばれた人たちは、永遠の神によって生かされて、永遠に生きる者とされるのです。彼らは「御使いと同じになり、復活の子たちとして神の子たちとなる」ことが約束されます。罪と汚れにまみれ、弱さと破れの中にあるわたしたちが御使いと同じように栄光に輝く者とされ、復活して神の子とされるのです。それは何という希望でしょうか。地上では病気や障がいや加齢によって身体上の様々な制約を受け、心も純粋とは言い難い、惨めな罪人にすぎないわたしたちが、やがて復活すると栄光の体をいただき、無垢で純真な心に聖められて御使いと同じ者とされていくのです。地上では身体的・精神的な様々の制約を受けて苦しみながら生きているわたしたちですが、やがてはそれらのすべてが取り除かれて栄光に輝く者とされていきます。この栄光の希望を抱いて生きていきましょう。