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3月24日(ルカ19章39〜44節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ193944節 悔い改めないエルサレムへの招き〕

 すると群衆の中からあるファリサイ派の人々が彼(イエス)に言いました。「先生、あなたの弟子たちが(黙るように)叱りなさい。」そこで彼は答えて言いました。「わたしはあなたがたに言います。もしこれらの者たちが黙ったとしても、石が叫ぶでしょう。」

 そして彼が近づいたとき、都(エルサレム)を見て、それについて泣き叫びながら言いました。「もしこの日に、あなたが平和に向かうことについて知っていたなら(どんなに良いか)。しかし今はあなたの目から隠されている。なぜならあなたの敵たちがあなたの周囲に塁壁を築き、あなたを囲み、あらゆる方向からあなたを閉じ込める日々がやって来るからです。そして彼らはあなたとあなたの子どもたちを地面にたたきつけるでしょう。そしてあなたの中には、石の上に石が(そのまま)置かれたままにしておかれることはないでしょう。あなたが、あなたへの訪れの時期を知らなかったからです。」

*( )は原文にないが理解のために補ったもの、〔 〕は別の訳。

エルサレムの子どもたちとは、住民のこと。訪れとは主イエスの来訪のこと。

 

エルサレムに入城された主は、この後に実現する惨劇を予想してエルサレムのために泣きました。やがてこの都は敵の手に落ちて陥落し、徹底的に破壊され、住民は虐殺され、奴隷とされるからです。そしてそれはこの都に、都の主なる方がおいでになったにもかかわらず、その主を拒絶し、捨て去るからでした。マタイ、マルコ、ヨハネではエルサレムに入城された主を迎えたのは都の住民や巡礼者たちとなっていますが、ルカは実は弟子たちだけだったことを冷静に伝えます。つまり都の住民は主イエスの到来を歓迎せず、喜びに沸き返りながら迎え入れる弟子たちを冷淡なまなざしで見るだけです。そうして主の到来を拒み、拒絶した都に対する裁きが下されることに、主は心引き裂かれる思いで嘆き、悲しまれるのでした。エルサレムが破壊されるのは、これが二回目です。主の時代よりも六百年前に起きたエルサレム陥落も、主なる神に立ち帰らず、逆らい続ける都に対する神の裁きとして起こされたものでした。しかしそこで預言者に裁きの預言を語らせた神の意図は、彼らを裁くことではなく、裁きを語ることによって悔い改め、神へと立ち帰ることでした。「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」これが神の意志でした。同じように主イエスは「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」わたしたちにも主を迎え入れることを呼びかけられるのです。