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1月13日(ルカ18章9〜14節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ18章9~14節 神の前で己を知り、へりくだる〕

 ところで彼(イエス)は、自分自身に向かって彼らは義人であると確信しきって、他の人々を軽蔑している〔見下している〕人々に対してもまたこの譬を言われました。「二人の人間が祈るために神殿に上りました。一人はファリサイ派(の人)、そして他の人は徴税人(でした)。ファリサイ派(の人)は立って、自分自身に向かってこれらのことを繰り返して祈りました。『神よ、わたしはあなたに感謝します。なぜならわたしは他の人間たち、つまり貪欲な人たち、不義な人たち、姦淫する人たちのようではなく、またこの徴税人のようでもないからです。わたしは週に二度断食し、手に入れるものは何でも、すべて十分の一を納めています。』ところがその徴税人は遠くに立ったまま、目を天に上げることさえもしようとせずに、むしろ自分の胸を打ちたたき続けながら言いました。『神よ、罪人のわたしを憐れんでください。』わたしはあなたがたに言います。この人(徴税人)がその人(ファリサイ派の人)よりも義とされて、彼の家の中に下りました。なぜなら、自分自身を高く上げる人は低くされるでしょうが、自分自身を低くする人は高く上げられるでしょうから。」

*( )は原文にないが説明のために付加したもの。〔 〕は別訳。

*週二度の断食日はユダヤ教では月・木曜日。それに対抗してキリスト教は火・金曜日。

*自分の胸を打ちたたくのは、悲しみや悔い改めの身体的表現。

*イザヤ5715節、マタイ2312節、ルカ1411節、ヤコブ1章9節参照。

 

主は二人の対照的な人についての譬を話されました。一人は週二回の断食と十分の一をきちんと納めて、完璧に律法を守り行っていると自負していたファリサイ派の人、もう一人は人間の屑、人生の破綻者、落伍者と見なされていた徴税人でした。正反対に位置する水と油のように違う二人ですが、神が受け入れられたのは徴税人の方でした。ファリサイ派の人の祈りは徴税人とは違います。心も立つ思いで、神殿の真ん中で立って祈りました。そこで祈ったことは自分がこの周りにいるような輩、とりわけ後ろに控えている徴税人のような悪人ではないことを感謝し、自分がいかに忠実に律法に沿った生き方をしているかについての自画自賛でした。彼は自分を「義人であると確信しきって」いましたから、神が彼を義とする必要などありませんでした。彼は自分で自分を義としていたからです。それと対照的なのが徴税人でした。彼は顔を上げることさえできずに、ただひたすら神の憐れみにすがりました。「罪人のわたしを憐れんでください。」彼にこれ以上の祈りができたでしょうか。そもそも神は徴税人の祈りなど聞いてはくださらないのです。しかしそれでもなお彼は神の憐れみによりすがって祈りました。彼は自分がどうしようもない罪人であることを自覚して、心からのへりくだりの中で悔い改めて祈ったのです。そして神は、この徴税人を義として受け入れられました。わたしたちはどちらの側にいるでしょうか。