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1月6日(ルカ18章1〜8節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ18章1~8節 気を落とさずに祈り続けること〕

 ところで彼(イエス)は彼ら(弟子たち)に、彼らがいつも祈り続けなければならず、そして熱心さを失わ〔落胆し・失望し〕ないように、譬を話し続けました。「ある町に神を畏れることなく、人に対して敬意を持たない、ある裁判官がいました。ところでその町にやもめがいました。そして彼女は『わたしを訴える者からわたしの権利を守ってください』と彼に(何度も何度も繰り返し)言いました。しかし彼はしばらくの間は(そう)しようとはしませんでした。しかしこれらの後で彼は自分自身の中で言いました。『わたしは神を畏れることがなく、人に対して敬意を持たない者ではあるが、このやもめ(から)の迷惑で困っているので、彼女の権利を守ってやることにしよう。そうしないとしまいには彼女がやって来て、わたしを散々に殴りつけるかもしれない。』そこで主は言われました。この不義な裁判官の言っていることを聞きなさい。しかし(ましてや)神は、昼も夜も彼に向かって(助けを)叫び続けている彼の選んだ者たちのために(正しい)裁きをしないまま放置したままにしておくでしょうか。わたしはあなたがたに言います。彼(神)は彼らのための裁きをすみやかに行なうでしょう。しかし人の子が来る時、彼は地上に信仰を見い出すでしょうか。」*( )は原文にないが説明のために付加したもの。〔 〕は別訳。

 

この譬は、譬の内容に引きずられて誤解しやすい譬です。ここに登場する寡婦のように、しつこく願い続ければ神は祈りに応えてくださる、だから一生懸命に祈り続けなさいと教えられていると理解してしまいそうですが、譬の主旨はその前に主御自身が言われた言葉に明らかにされています。つまり弟子たちが「いつも祈り続けなければならず、そして熱心さを失わない(落胆しない・失望しない)」で祈り続けるということにあります。祈り続けるというわたしの側の熱心が神を動かし、その願いを実現させるということではありません。ここに登場する不義な裁判官は、寡婦が自分に殴りかかりそうな勢いで何度も何度も自分のための弁護を要求し続けたことによって、彼女の裁判をしました。このような不正直な人でさえも、一生懸命に訴えて来る人の訴えには最終的には応じようとするのであれば、ましてや神は、ひたすらに祈り続けるわたしたちの祈りを無視したり、聞き逃したりするはずがない。必ず祈りに応じてくださると教えておられるのです。不正義な人間でさえそうするのであれば、ましてや正義の神はわたしたちの正しさを擁護し、弁護し、訴えを聞き届けてくださるのです。それは神を動かすわたしの熱心さや必死さが問題なのではなく、わたしたちの祈りに誠実に応じてくださる神の憐れみ深さが約束されているということです。新しい一年もこの神に信頼して、諦めることなく祈り続けていきましょう。