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12月30日(ルカ17章22〜37節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ172237節 神の国の到来と終わりの裁き〕

 ところで彼(イエス)は弟子たちに向かって言いました。「あなたがたが人の子の日々を一日でも見ることを切望する日々がやって来るでしょう。しかしあなたがたは見ないでしょう。そして人々はあなたがたに言うでしょう。『見よ、そこに(人の子がいる)』あるいは『見よ、ここに(人の子がいる)』あなたがたは出かけてはいけません。追いかけてはいけません。というのは、ちょうど稲妻が閃光を放ちながら天の下から天の下へと照らすように、そのように彼(人の子)の(来る)日に人の子もそのようになるからです。しかしまず彼は多くの苦しみを味わい、この時代(の人々)から拒絶されなければなりません。またノアの日々に起きたように、人の子の日々にも為されるでしょう。ノアが箱舟の中に入る日まで、人々は食べ続け、飲み続け、めとり続け、嫁ぎ続けました。そして大洪水がやって来て、すべて(の人々)を滅ぼしました。ロトの日々に起きたのと同じようになるでしょう。人々は食べ続け、飲み続け、買い続け、売り続け、植え続け、建て続けました。ロトがソドムから出て行った日、天から火と硫黄が降り、すべて(の人々)が滅びました。人の子が現われる日に同じことが起こるでしょう。その日には、屋上の上にいる人は、家財が家の中にあるので、それらを運ぼうと降りて行ってはいけません。畑にいる人は、後の方に戻ってはいけません。ロトの妻を思い起こしなさい。誰でも自分の魂〔命〕を保つことに熱心に務める人は、それを滅ぼすことになるでしょう。しかし滅ぼすなら、それを生かすことになるでしょう。わたしはあなたがたに言います。この夜二人(の男たち)が一つの寝床に寝ているでしょうが、一人は連れ去られ、もう一人は取り残されるでしょう。二人(の女たち)が同じ場所で臼をひいているでしょうが、一人は連れ去られ、もう一人は取り残されるでしょう。【畑にいる二人は、一人は連れ去られ、もう一人は取り残されるでしょう。】そこで彼ら(弟子たち)は彼(イエス)に答えて言いました。「主よ、どこで(それは起こるので)すか。」そこで彼は彼らに言いました。「(死)体のあるところ、そこにはげたかたちも(一か所に)集まるでしょう。」

*( )は補遺、〔 〕は別訳、【 】は別の写本にある部分。

 

主イエスやパウロが活動していた時代は、ユダヤが終末ブームで反ローマ感情が高まり、戦争への準備がされていた騒然とした時代でした。そうした中で偽メシアが登場しては反乱を企てて、ことごとくローマ軍によってつぶされることが繰り返されていました。そうした時代に、主はご自分が再臨される終わりの日に備えて生きることを語られます。メシアが現われたという誘いに乗って、ついていったりしてはいけない。終わりが来るからと慌ててはいけない。かといって、終わりなど来ないとたかをくくって、日常生活に埋没し、危機感を持たずに緩慢に生きることも戒められます。主イエスはここで「誰でも自分の魂〔命〕を保つことに熱心に務める人は、それを滅ぼすことになるでしょう」と語られます。それは目先の生活や地上の人生を追い求めて、肝心の永遠の命を見失うことがないようにという勧めです。わたしたちが地上に生きている間に追い求めるべきことは永遠の命です。そして永遠の命に生きるわたしたちにとって、終わりの時代は決して恐ろしいものではありません。なぜならわたしたちにとっての終わりの時代は、すべての敵が滅ぼされ、自らの正義が明らかにされて、天の国に迎え入れられる時だからです。だからどんなに暗い世の中にあっても顔を上げて、希望を抱いて終わりの時を待ち望んでいきましょう。主イエスが来られる日、闇の中のわたしたちは、真昼のように輝かされることになるからです。