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8月26日(ルカ16章19〜26節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ161926節 自己中心な刹那的人生への問い〕

ところである金持ちの人がいましたが、彼はいつも紫の上着やきめの細かい亜麻布(の下着)を着ていて、毎日贅沢三昧に楽しく暮らしていました。またラザロという名の極貧の人がいて、彼(金持ち)の門のところで、腫瘍に覆われたまま投げ出されていました。彼(ラザロ)はその金持ちの食卓から落ちるもの(手を拭いて投げ捨てられるパンくず)によって腹を満たしたいと切望しました。そればかりか犬たちがやって来て、彼の腫瘍をいつも舐めていました。さてこの極貧の人は死んで、み使いたちによってアブラハムの懐の中に連れて行かれるということが起きました。またその金持ちも死に、葬られました。そしてハデス【黄泉】の中で苦しんでいましたが、目を上げるとはるか遠くからアブラハムと彼の胸にいるラザロを見ました。そこで彼は大声を出して言いました。「父アブラハム様、わたしを憐れんでください。そして彼(ラザロ)が彼の指の先に水を浸して、わたしの舌を冷やすように、ラザロを送ってください。わたしはこの炎の中でひどく苦しみ、もだえていますから。」しかしアブラハムは彼に言いました。「子よ、思い出しなさい。あなたがあなたの人生であなたの多くの良いものを受け取ったことを。しかしラザロは同じように多くの悪いものを(受け取った)。しかし今はここで慰められているが、お前は苦しみ悶えている。そしてこれらすべての上に、わたしたちとお前たちとの間には大きな深い裂け目が据えられている。それでここからお前たちのところに渡って行こうと思う人が(それが)できないように、また人はそこからわたしたちのところに越えて来ることもできないのだ。」

*【 】は別の訳、ハデス【黄泉】は死者が行く場所、「アブラハムの懐」は天国のこと

 

主イエスが話された譬には対照的な二人が登場します。一人は毎日を贅沢に遊び暮らしていた金持ち、もう一人は全身腫瘍に覆われて苦しみつつ、飢えを満たしたいと切望していた極貧の人でした。彼はラザロ(エルアザル=神は助ける)という名で、金持ちが食事で手を拭うために捨てたパン屑にあずかりたいと願いましたが、犬の餌だったそのお手拭パンにさえあずかることができず、犬がやって来て彼の腫瘍を舐めたとあります。犬同然、いや犬以下の生活を余儀なくされていたのがラザロでした。しかし彼は死後アブラハムの懐、つまり天国に迎え入れられて安息を与えられます。アブラハムのすぐ横という最上席に着かせられるのです。それと対照的なのが金持ちでした。彼は贅沢三昧をした挙句、毎日を遊び暮らし無為に過ごしていました。その日その日の楽しみに満ち足りたでしょうが、ただひたすら刹那的に毎日を過ごしました。そうして実は彼の方が犬同然の生活を送り、いや犬でさえラザロを憐れんだのに、飢えに苦しむラザロを目にしても憐れみをかけることなく犬以下の人生を過ごしました。当然の報いとして彼はハデスで永遠の業火に責めさいなまれながら、悶え苦しむことになります。そこでも彼は自己中心でした。どこまでも自分のためだけに生きた金持ちとは誰のことでしょうか。刹那的に毎日を過ごす人とは誰のことでしょうか。主イエスはわたしたちにも問いかけておられるのではないでしょうか。