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7月1日(ルカ15章25〜32節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ152532節 もう一人の放蕩息子の譬〕

 さて彼の年上の息子はいつも畑の中にいました。そしてやって来て家に近づいたとき、彼は音楽と踊り(の音)を聞きました。そこで僕たちの(うちの)一人を呼び寄せて、『あれはどういうことか』と尋ねました。そこで彼(僕)は彼(兄息子)に言いました。『あなたの兄弟が来ています。そこであなたのお父さまは肥えた子牛をほふりました。なぜなら彼(父親)は元気な彼(弟息子)を返してもらったからです』と。すると彼(兄息子)は腹を立てて(怒り、家に)入ろうとはしませんでした。そこで彼の父は(外に)出て来て、しきりに彼に懇願しました。しかし彼は彼の父に答えて言いました。『見てください。これだけの(長い)年月、わたしはあなたに(奴隷として)仕えてきました。そしてあなたの命令〔戒め〕を破ったことは一度もありません。しかしあなたはわたしがわたしの友人たちと共に喜び楽しむためにと山羊(一匹)もわたしに与えてくれたことは一度もありません。ところが売春婦たちと一緒にあなたの財産を食いつぶした、このあなたの息子が(帰って)来たら、あなたは彼のために肥えた子牛をほふりました。』しかし彼(父親)は彼(兄息子)に言いました。『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいます。それにわたしのものはすべてあなたのものです。そしてお祝いをして喜ばなければならなかったのです。なぜならこのあなたの兄弟は、死に続けていましたが、生きました。そして失われてしまいましたが、見つけられたからです。』」

*( )は原文にないが説明のために付加したもの、〔 〕は別の訳。

 

 「放蕩息子の譬」として知られているこの譬の意図はむしろ後半にありました。主イエスがこの譬の後半で語ろうとされたのは、父の許にずっと一緒に居て、一度も父の戒めを破ったことがないと主張する兄息子も、実は放蕩息子だったということです。それはつまり神の戒めをないがしろにして、神から離れて生きていた徴税人や罪人は、自分の罪を認めて立ち帰ったことで受け入れられました。しかし一度も神の戒めを破ったことがなく、父に奴隷のように仕えてきた兄息子も、父の心を知らず、知ろうともせず、心においては父から遠く離れていたのであり、父を悲しませていた放蕩息子であることは同じだということでした。この主イエスの言葉はわたしたちにも向けられます。長く信仰生活を忠実に歩み、神の戒めに従って生き、神に仕えてきたと考えるわたしたちはどうでしょうか。たしかに表面的には神に従順でしたが、そこに本当に神に対する愛はあったでしょうか。神を喜び、感謝する思いから奉仕をしてきたでしょうか。むしろ神に対して自分が奴隷のように仕えていると不満をたぎらせ、それに何一つ報いてくれないと不平を口にしながらいやいや仕えてきたのではないか。もしそうであるならわたしたちも兄息子と同じだということなのです。神が求めておられるのは、うわべだけの従順ではなく心からの感謝と喜びから紡ぎ出される奉仕であり、神に対する愛なのです。わたしたちはいかがでしょうか。