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6月3日(ルカ15章8〜10節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ15章8~10節 失われた銀貨を捜し求める女性〕

 あるいは10ドラクマ(銀貨)を持っているある女性が、もしその(うちの)1ドラクマ(銀貨)を失くしたら、ランプに火をともして家を掃き、見つかるまで丹念に〔注意深く〕捜さないでしょうか。そして見つけると友人たちや近所の人たちを呼び集めて、「わたしと一緒に喜んでください。失くしていたドラクマ(銀貨)を見つけたからです」と言うでしょう。わたしはあなたがたに言います。このように悔い改めている一人の罪人のゆえに、神の御使いの前に喜びが起こっています。

 ドラクマ:ギリシャの銀貨、デナリオン(ローマの銀貨)と等価、1日の労働賃金相当

 

 主イエスは無くなった銀貨を捜す女性の譬を話されました。ここで女性が登場することがこの譬の眼目です。男性の銀貨が無くなったということであったら違う意味になるからです。単にお金が無くなったという話ではないのです。当時のユダヤの女性は自分の意志で自由に使えるお金を所有していませんでした。自分自身さえ主人の所有物だったからです。その中で唯一所有と使用が許されていたのが自分が結婚に際して持ってきた持参金でした。そしてこれはもし将来不測の事態が生じた場合に彼女を守る唯一の手立てでした。だから親はどんなに貧しい中にあっても娘の幸せのために精一杯持参金を持たせたものです。ところが彼女が持っていたのはたった10ドラクメだけでした。どんなに貧しい家から嫁いできたかが分かります。しかし彼女にとってそれは親が自分のために生活を切り詰めて精一杯持たせてくれた宝物でした。そこには娘の幸せを願う親の愛と思いがぎっしりと詰まっていたからです。ですからこれは彼女にとって本当になくてはならないものであり、他に代えることができないものでした。その1枚を失くしたらどうするかと主は問われたのです。彼女は決してあきらめません。見つけるまで絶対に捜し続けます。それは彼女にとってなくてはならないものだからです。主イエスはこの無くなった銀貨はあなただと言われるのです。そのようにわたしたちも神にとってはなくてはならない存在なのです。