5月27日(ルカ15章1〜7節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ15章1~7節 失われた羊を探し求める羊飼い〕

 さて、徴税人たちと罪人たちのすべてが彼(イエス)から聞くために彼に近づいてきました。そこでファリサイ派の人たちと律法学者たちは、「この人は罪人たちを歓迎し、彼らと一緒に食事もしている」と言って、つぶやきました。そこで彼(イエス)は彼ら(ファリサイ派の人たちと律法学者たち)に向かって、次の譬を言いました。「あなたがたの中のある人が百匹の羊を持っていて、そしてその中の一匹を失ってしまったら、九十九匹をその荒れ野の中に残しても、それを見つけるまで失ったものに向かって(捜しに)行くのではないですか。そして見つけると、彼は喜びながら自分の肩の上に(いなくなっていた羊)乗せます。そして家に入り、友人たちや近所の人々を呼び集めて、彼らに言います。『わたしと一緒に喜んでください。失ったわたしの羊を見つけました。』わたしはあなたがたに言います。このように、悔い改める必要のない九十九人の義人たちのことよりも、悔い改める一人の罪人のことで天には大きな喜びがあるでしょう。」

 

 主イエスは失われた一匹の羊を捜す羊飼いの譬を話されました。一匹の羊が迷い出ていなくなってしまったとき羊飼いはどうするかという話です。彼は99匹を荒れ野に置いたまま、いなくなった羊を捜し回ります。それも見つけ出すまでです。見つかるまでは諦めません。何としてでも見つけ出そうと必死になって捜します。なぜなら時間がないからです。羊がどのような状態で失われたかは分かりませんが、もし崖や谷底に転落していれば怪我をしているかもしれませんし、茨やとげのある植物にからめとられて身動きできなくなっていれば弱っていきます。水も食べ物もないまま放置されていればいずれは死にます。だから羊飼いは必死になって捜し廻るのです。そして見つかるまで羊飼いは心安らかでいることができません。この譬はエゼキエル書34章が前提にあります。そこでは失われてしまったイスラエルを、神が全力で捜し求め、傷ついた者をいやして連れ戻すと約束されています。まさにこの預言を成就する羊飼いとして来られた方こそ主イエスでした。人間の間ではそれほど関心を持たれることもなく、人から尊ばれることもないわたしたちも、神にとってはなくてはならない存在です。そしてわたしたちが神から失われていることは、神にとってどうでもいいことではなく、心落ち着かず心悩ますことなのです。「わたしにとってあなたは高価で尊い」といって、わたしたちを探し求め続ける神の許に戻りましょう。