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1月28日(ルカ13章22〜30節

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ132230節 神の御心を行う者が入る〕

 そして彼(イエス)は町々村々ごとに教えながら巡り歩き、エルサレムへの旅をしておられました。ところがある人が彼に言いました。「主よ、救われる人々はわずかなのでしょうか。」そこで彼(イエス)は彼らに向かって言われました。「あなたがたは狭い戸口を通って入って来るように懸命に努力しなさい。わたしはあなたがたに言いますが、多くの人々が懸命に入ろうとするでしょうが、(入ることが)できないでしょう。家の主人が立ち上がって、戸口を閉めてしまった後では、戸口の外に立ったまま『主よ、わたしたちのために(戸口を)開けてください』と(戸口を)叩き続けながら言うでしょうが、彼(家の主人)は、『わたしはあなたがたがどこからの人たちであるかを知らない』と言うでしょう。そのときあなたがたは、『わたしたちはあなたの前で(=一緒に)食べましたし、飲みました。そしてあなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました。』しかし彼(家の主人)はあなたがたに、『わたしはあなたがたがどこからの人たちであるかを知らない。不義の働き人たちのすべてよ、わたしから離れなさい』と言うでしょう。そしてあなたがたは、アブラハムとイサクとヤコブと預言者たちのすべてが神の王国の中にいるのを見るとき、しかしあなたがたは外へと投げ出されるとき、あなたがたは泣き、歯ぎしりすることでしょう。東と西と北と南から(人々が)来るでしょう。そして神の王国の中で横になる〔宴会の席に着く〕でしょう。しかし見なさい。あなたがたで最後の者が最初の者となり、また最初の者が最後の者となるでしょう。」

*( )は原文にはないが説明のために付加した言葉。〔 〕は別の訳。

 

 主イエスは戸口が閉められた後では、どれだけ懇願しても開けられないと警告します。戸口が開いている間に神の国に入る努力をする必要があります。その前に脱落していく人が多くいるからです。途中で挫折することがないように心していかなければなりません。しかし信仰から脱落した人だけではないことにも注意しなければなりません。ここで戸口から締め出された人たちは、必ずしも怠惰で不熱心な人たちだったわけではないからです。主イエスとの食卓の交わり、つまり聖餐にあずかり、教えを聞いた、つまり礼拝に出ていた人たちでした。しかし目に見える教会に属し、目に見える信仰生活をしているだけでは、その人が本当に救われているのか、つまり神の国に入ることができるのか判断することはできません。洗礼を受けているからとか、教会員だから大丈夫だというのではないのです。長く教会に通っているとか、奉仕をしているから大丈夫だというのでもありません。外面的な信仰生活が救いを保証するわけではなく、奉仕をしていることが救いを確かにするわけではないからです。外面的には熱心に奉仕しているように見えたとしても、主はその人の心をご覧になります。どんな成果を収めたか、どんな結果を生んだかということが問題なのではなく、その奉仕に携わった動機が問われます。主は天の父の御心を行う人だけが入れられると語りました。真実に御心を行う者として真摯に生きていきたいと思います。