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9月10日(ルカ12章35〜40節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ123540節 仕えることの模範〕

 あなたがたの腰は帯を締められていなさい。そしてともし火が燃やされているままでいなさい。そしてあなたがたは、主人が(帰って)来て、そして戸をたたくとき、すぐに彼のために(戸を)開けるために、婚宴からいつ帰るかとあなたがたの主人を待つ人々のようです。主人が(帰って)来たとき、目を覚ましているのを彼が見出す、そのような僕たちは幸いです。わたしは真実にあなたがたに言います。彼(主人)は帯を締めて、彼ら(僕たち)を食卓に着かせ、彼が彼らに近寄って給仕するでしょう。またたとえ第二夜警時に彼(主人)が来ても、また第三夜警時に彼が来ても、このように(目を覚ま)しているのを彼(主人)が見出す、そのような人々は幸いです。しかしあなたがたはこのことを知っていなさい。もし家の主人がどの時刻に盗人が来るかを知っていたなら、彼は(盗人が)自分の家に穴を開けて押し入られることはさせないでしょう。そこであなたがたも用意できているようにしなさい。なぜならあなたがたが思いもしない時に、人の子は来るのですから。

*( )は原文にはないが説明のために付加した言葉。〔 〕は別の訳。

帯を締めるとは、帯をして衣の裾をひきからげて帯にはさみ仕事ができるようにすること

第二夜警時は午後9~12時頃、第三夜警時は午前0~3時頃

 

 主は、主人がいつ帰っても、すぐに食事を出し、給仕できるように、目を覚まして用意する僕のように、主がいつおいでになってもいいように、わたしたちも目を覚まして用意していることを語られました。そしてそのような忠実な僕には、「主人は帯を締めて、僕たちを食卓に着かせ、彼が彼らに近寄って給仕するでしょう」と約束されたのです。これでは逆ではないでしょうか。僕は主人に給仕するために備えているのです。しかしそのように忠実に自分の職務を果たす僕に対して、主イエスはご自分が彼らに給仕し、仕えてくださると言われるのです。そもそも神の独り子が栄光の御座を捨てて、人となり、いやしく貧しい姿をとってくださいました。しかもそれは「仕えられるためではなく仕えるため」にでした。このように主イエスご自身がわたしたちに「仕える者」としての模範を示してくださいました。その極みが最後の晩餐で弟子たちの足を洗われた姿に表されています。そこで主は弟子たちに、彼ら同士が仕え合うようにと命じられました。そして十字架にかかって、ご自分の命さえ犠牲に差し出すほどにわたしたちに仕えてくださいました。この十字架の主を前にして、わたしたちの心は震えないでしょうか。いつの間にか傲慢に生きている自分が恥ずかしくないでしょうか。人を見下し、軽んじている自分が恥ずかしくないでしょうか。真実に隣人に仕える者とされていくように祈り求めていきたいと思います。