6月25日(ルカ11章42〜44節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ114244節 神が真に求めておられるもの〕

 しかしあなたがたファリサイ派の人々は災いです。はっかと芸香とひとつひとつの野菜の十分の一は納めています。しかし正義と神の愛を無視して〔見過ごして〕いるからです。これらのことは行わなければなりません。そして怠って〔軽視して〕はなりません。

 あなたがたファリサイ派の人々は災いです。会堂の最上席と市場でのあいさつを愛しているからです。あなたがたは災いです。あなたがたは目に見えない墓のようだからです。人々はその上を歩いても、気づきません。」

*〔 〕は別の訳。

 

 主イエスのファリサイ派の人に対する痛烈な言葉が続きます。「あなたがたファリサイ派の人々は災いです。はっかと芸香とひとつひとつの野菜の十分の一は納めています。しかし公正と神の愛を無視しているから。」ファリサイ派の人々は律法を完全に遵守することに血眼になりました。しかしその熱心さのあまり字句についての細かい解釈や具体的な適用の事例についての議論に熱心で、肝心の律法の本質を見失ってしまっていました。「公正と神の愛」とは、言い換えれば「隣人への愛と神への愛」ということです。神が律法によって願われたことは「神を愛し、隣人を愛する」ことだけでした。しかし彼らはその神の願う御心をそっちのけにして、律法の意味や解釈や適用事例ばかりに心を配り、結局外面的な遵守に終始しました。主イエスの時代は613もの細かい規則が定められていました。しかし神が律法によって願われたのは単純に「愛する」ことでした。愛とは、愛とは何を議論したり定義することではなく、実際に愛することです。神は御自身と隣人を愛することを願われて、律法を与えられました。しかしそれ以上に神が求められたのは、わたしたちが「神の愛」を知ってほしいということでした。わたしたちが神を愛する前に、神がわたしたちを愛しておられたのです。この「神の愛」を知ることこそ、神が求められたことでした。そしてこの「神の愛」から、神と隣人を愛する愛も紡ぎ出されていくのです。