6月11日(ルカ11章37〜41節)

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ113741節 自分の内側にあるものを見る〕

 さて(イエスが)話し終えたとき、ファリサイ派の人が自分の家で食事をするように彼にお願いました。そこで彼(イエス)は入って行って食事の席につきました〔横になりました〕。しかしそのファリサイ派の人は、彼が食事の前にまず最初に(手を)洗わなかったことを見て驚きました。そこで主は彼に向かって言いました。「ところで、あなたがたファリサイ派の人々は杯や皿の外側はきよめます。ところがあなたがたの内側は強欲と邪悪さでいっぱいです〔満ちています〕。愚かな人たち、外側を造られた方は内側をも造られたのではありませんか。むしろ内にあるものを施しなさい〔慈善として与えなさい〕。あなたがたにとってはすべて(のもの)が清い(ものとなる)。」

*( )は原文にない補足の言葉、〔 〕は別の訳。

 

 主イエスはファリサイ派の人に痛烈な言葉を投げかけました。「あなたがたファリサイ派の人々は杯や皿の外側はきよめます。ところがあなたがたの内側は強欲と邪悪さでいっぱいです」と。わたしたちはファリサイ派に対して偏った理解を持っています。ファリサイ派とは外見ばかりを気にする形式主義の偽善者だと。しかし彼らは律法を守り行うことで道徳的で高潔な生き方を求めて真面目に生きた立派な人たちでした。しかしその彼らの立派さに問題がありました。彼らは自分が立派に生きていることを誇り、神の前での自分の義を自負していました。この彼らの立派さの背後にある自己義認、自分で自分を義とする醜い思いが彼らの内側を満たしていた、それを見抜いた主イエスは彼らに対して「あなたがたの内側は強欲と邪悪さでいっぱい」だと言われたのです。しかしそれは彼らだけの問題ではありません。自分は長く信仰生活を送り、真面目に礼拝を守り、奉仕もしてクリスチャンらしく生きてきた、そう考える時わたしたちも同じ問題を抱えることになります。自分は立派だと自己義認し、自分の熱心や努力が自分をそうしたと勘違いするとき、わたしたちの内側にも自己義認の罪がびっちりとこびりついて心を満たしています。自分では自分の罪をどうすることもできないわたしたちです。だから聖霊がわたしたちの心に生きて働いて、日々新しくし心を清めていただく必要があります。聖霊の清めを受けましょう。