〔今週の御言葉-私訳と黙想 マタイ6章9~13節(2) 神によって確かにされる祈り〕
そこで、あなたがたはこのように祈りなさい。
天におられるわたしたちの父よ、
あなたの名が聖(なるもの)とされますように。
あなたの王国〔支配〕が来ますように。
あなたの意志が、天において(為されるの)と同じように地の上でも、
為されますように
次の日〔今日〕のためのパンをわたしたちに今日与えてください。
わたしたちの負い目をわたしたちに対して赦してください。
わたしたちがわたしたちに負い目のある人たちを赦してしまいましたように。
そしてわたしたちを試み〔試練・誘惑〕の中に導き入れないでください。
むしろ、わたしたちを悪〔悪を為す者〕から救ってください。
【なぜなら王国〔支配〕と力と栄光とは、永遠まであなたにあるからです。アーメン】
*( )は原文にはないが、理解に供するために付加したもの、〔 〕は別の訳。
*最後の【 】部分は、多くの翻訳聖書が底本とする標準的なギリシャ語本文にはないが一部の写本には付加されており、本文に括弧付きで、あるいは欄外註にある部分。
主の祈りはアーメンでしめくくられます。アーメンとはそのとおりですとか、同じ思いですといった意味があり、そこでの祈りに同意し、それを承認することです。しかしわたしたちは、自分のした祈りを自分で承認したり、確証したりすることができるでしょうか。ましてや他人の祈りを確証することなど果たしてできるのでしょうか。それではどうしてわたしたちは、それでも祈りの最後にアーメンと言うことができるのでしょうか。アーメンとは「それが真実であり確実である」ということですが、なぜそう言うことができるかと言うと、「これらのことを神に願い求めていると、わたしの心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているから」です。わたしたちが自分で自分の祈りを確かにするわけではありません。またわたしたちの祈りが無垢で純粋なものだと言うことはできないし、心からの祈りだと言うこともできません。しかしそのような不純でどこまでも自分中心な祈りを、それでも喜んで受け入れてくださり、聞きあげてくださる方がいるのです。そしてその方が、わたしたちの祈りをご自分の祈りとして父へと祈り上げてくださるのです。だからわたしたちは確信を持って自分の祈りが神へと聞き届けられると共に、必ず適えられると信じて祈ることができるのです。アーメンである方がわたしたちのアーメンをご自分のアーメンとしてアーメン(然り)としてくださるからです。
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