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1月8日(ルカ11章5〜8節)

 

〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ11章5~8節 厚かましいまでの神への信頼〕

そして彼は彼らに向かって言いました。「あなたがたの中の誰かが友人を持っていて、そして夜中に彼のところに行き、彼に言ったとします。『友よ、わたしに3個のパンを貸してください。わたしの友人が旅の途中でわたしのところにやって来ました。しかしわたしは彼に差し出すものを持っていませんので。』すると彼は内側から答えて言うでしょう。『わたしに迷惑をかけないでくれ。もう戸は閉められている。そしてわたしの子供たちはわたしと一緒に寝床の中にいる。わたしは起き上がって、君に与えることはできない。』わたしはあなたがたに言います。彼が彼の友人であるという理由で、彼が起きて彼に与えることはないでしょう。(しかし)彼の厚かましさ〔図々しさ・しつこさ・執拗さ〕のためには、彼は起き上がらせられて、彼が必要としているものをみな、彼に与えるでしょう。」

 

 主イエスはわたしたちが神をアバと呼びかけて、まるで幼子が自分の父親におねだりするような図々しく厚かましいほどの願いをすることを教えられました。祈りというのは、襟を正して「御在天の御父上様」と裃をつけて祈るものではなく、「父ちゃん」とか「パパ」と呼びかけてお願いをする、かなえてくれるのは当然だと言わんばかりの親密さで神に祈り求めることを教えてくださいました。ここで主イエスは「厚かましさ」のゆえに友人の要望に応える人の譬を語られることで、わたしたちの祈りにもわたしたちの願いをかなえて当然と言わんばかりの「厚かましさ」が大切だと教えられますが、その前提に、わたしたちが祈り求める方がわたしたちのアバであり、神をそのように信頼して祈ることが求められています。だからこの譬の前の「主の祈り」で神をアバと呼ぶことを教えると共に、この譬の後には人間の父親が自分の子供の要求に応えることの譬を語り、いわばその間に挟み込む形で、この譬を語っておられます。ですからそこで求められていることは、単に「厚かましい」祈りをすれば良いということではなく、その祈りがアバに対する深い信頼の中での「厚かましさ」であるということです。厚かましいほどの人間の熱心さが神を動かすというのではなく、素朴なまでの神への信頼が神ご自身を動かしていくのです。祈る前から私たちの必要を知ってくださるアバに、信頼をもって願い求めていきましょう。