8月7日(ルカ11章1~4節⑤)

さて、彼(イエス)がある場所で祈っているときに起こったことです。彼が(祈りを)終えたとき、彼の弟子たちのある人が彼に向かって言いました。「主よ、(洗礼者)ヨハネも彼の弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」そこで彼は彼らに言いました。「あなたがたは祈るときには、(次のように)言いなさい。

 父よ、あなたの名が聖(なるもの)とされますように。

 あなたの王国〔支配〕が来ますように。

次の日〔今日〕のためのパンをわたしたちに毎日与え続けてください。

わたしたちのをわたしたちに対して赦してください。

なぜなら、わたしたち自身もわたしたちに負い目のあるすべての人を赦していますから

そしてわたしたちを試みの中に導き入れないでください。」

*( )は原文にはないが、理解に供するために付加したもの、〔 〕は別の訳。

 

〔マタイ6章12節〕

わたしたちの負い目をわたしたちに対して赦してください。

わたしたちがわたしたちに負い目のある人たちを赦してしまいましたように

二重線・太線はルカとマタイで違う箇所、波線はルカだけにある箇所。

 

 

 「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」、この祈りの前でわたしたちは立ちすくんでしまいます。この祈りは、わたしたちが神から赦されることと、自分が他者を赦すこととの間に深い結びつきがあることを明らかにします。自分は罪を赦されたいと願いますが、自分に罪を犯した者を赦すことができるかと問われると口ごもってしまいます。人生の中には、どうしても赦せない人や赦せない出来事というものがあり、それを心の奥深くに抱え込んだまま表面上はうまくつきあっているのです。しかしそれは相手を赦しているということではないし、決して赦せないという思いに縛られています。自分が神から赦されることが自分が他者を赦すことと比例するのであったら、わたしたちは赦されないことを覚えざるを得ません。しかしこの祈りはあなたが相手を赦さないのであったら、わたしもあなたを赦さないと言われているものではありません。赦そうとしないわたしですが、そのわたしはもうすでに主によって赦されているからです。主の十字架の贖いによって、もう罪赦された者とされています。だからそうして赦されることの恵みを知っているあなたは、相手を赦す者になりなさいと呼びかけられているのです。自分が置かれた赦しの恵みの中に、相手をも招き入れるようにと求められるのです。自分の罪のための主の十字架を見上げつつ、わたしたちも赦しに生きる者に変えられていきましょう。