〔今週の御言葉-私訳と黙想 ルカ1~4節(2) 神の名が聖とされるための祈り〕
さて、彼(イエス)がある場所で祈っているときに起こったことです。彼が(祈りを)終えたとき、彼の弟子たちのある人が彼に向かって言いました。「主よ、(洗礼者)ヨハネも彼の弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」そこで彼は彼らに言いました。「あなたがたは祈るときには、(次のように)言いなさい。
父よ、あなたの名が聖(なるもの)とされますように。
あなたの王国が来ますように。
次の日のためのパンをわたしたちに毎日与え続けてください。
わたしたちの罪をわたしたちに対して赦してください。
なぜなら、わたしたち自身もわたしたちに負い目のあるすべての人を赦していますから。
そしてわたしたちを試みの中に導き入れないでください。」
*( )は付加したもの、〔 〕はもう一つの訳
神の名が崇められる(聖とされます)ようにと祈る祈りは、一つにはわたしたちの心の目が開かれて、神を神として仰ぎ見ることができるようにと祈る祈りです。崇めるとは、大きくすることです。わたしたちの中で神が大きくなっていくことを求めるのです。なぜならわたしたちの目は目先の問題に捕らわれて、神を神として信じられず、神ではなく問題へと向けられてしまっているからです。問題によって神が隠されてしまっている、だから神が見えるようにしてくださいと祈ります。神を仰ぎ見ることができれば、つまり自分の中で神が大きくされていくなら、問題は小さくなり、悩みも心配も不安も小さくなっていきます。だから自分の中で神が大きくされますようにと祈るのです。もう一つは神が聖なる方としてご自身の聖さを現わしてくださるようにという祈りです。神の聖さはわたしたち神の民によって汚されてしまっており、神の名は地に堕ちてしまっているからです。わたしたちは神の民として神の栄光を現わす生き方をしているでしょうか。むしろわたしたちによって神の名が汚されていないでしょうか。だから汚され、地に堕ちた神の名を、神ご自身が聖としてくださるように祈ります。それは神を汚すわたしたち自身が神によって聖なる者とされることによって実現します。わたしたちが聖なる者とされることで神は御自分の聖さを明らかにされます。そのように神の聖さが現わされるようにと祈るのです。
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